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【読書】2023年7月に読んだ本

昭和42年発行の『種の起源(上巻)』第六刷が手元にあります。たしか17,8年前に阪急梅田のかっぱ横丁で買ったような。さして値打ちがあるものではないはずですが、買った理由を思い出せません。でも、今月読んだ以下の本に絡めてあらためて読み直してみて、17,8年前の自分の判断に、なにやら運命的なものを感じてしまいました。

7月は以下の2冊を読んでいます。


・コスタス・カンプラーキス、トビアス・ウレル『生物学者のための科学哲学』 (鈴木大地・森元良太・三中信宏・大久保祐作・吉田善哉 訳)(勁草書房)

たいへんな名著でした。素晴らしすぎて言葉もありません。全15章のいずれもが珠玉の論考ですが、特に以下の3章が素晴らしい。これら章タイトルが示す通り、取り扱う問いが明確であるため、各章の論述や敷衍がどの程度までうまくいっているのか読み取りやすくなっています。

・第6章「なぜ多くの生物学の概念がメタファーであることが問題になるのか?」(コスタス・カンプラーキス(森元良太訳))
・第7章「概念はいかにして科学を前進させるのか? ─進化生物学を例として」(ディヴィッド・J・デピュー(三中信弘訳))
・第11章「生物分類の基盤は何か? ─自然の体系の探索」(トーマス・A・C・レイドン(三中信弘訳))

私は理学部生物科の修士で、その後に博士(薬学)と進んだので自分ごととして問題視していますが、分子生物学にも薬学にも、分子間の相互作用や作用メカニズムを単純にモデル化し、たとえ話(メタファー)として図示する傾向があります。学界には、このような機序モデルを最後のfigに図示できない論文や研究成果には価値がない、とみなす風潮すらあります。

語"cancer signal transduction pathway"でGoogle検索したときの例

上に挙げた第6章および第7章は、モデル化(メタファー使用)のメリット、ついついモデル化してしまう理由、そしてその問題点をまとめています。「メタファーを用いると、異なる事物についてのふたつの考えがともに活性化され、それらが相互作用した結果として生じる意味を表す単一の語句によって支えられるようになる」(p115)。メタファーには発見法的機能および理論的機能という科学上の機能と、科学コミュニケーションにおけるレトリック的機能があります(p118)。

第11章は、「遺伝子」概念の危うさや、それでも「遺伝子」概念を使用することの有用さを述べています。遺伝子は「機能的に定義された存在」であり、「分類はもともと理論依存的」である、という説明にとてもすっきりしました(p246-7)。私たち自然科学の研究者は、対象が自然的存在であるために、研究成果をモデル化した概念もまた自然的存在だと思い込む傾向があるのです。

各章のタイトルが示す問いに対して、読者である私たちは「そのように問うことはどのようなときになら(いかなる条件下でなら)もっともらしいのか?」と考える必要があると思います。それは教育方法論のなかで扱う話題だと想像しています。


・池田弘乃『ケアへの法哲学 ─フェミニズム法理論との対話』(ナカニシヤ出版)

本を読んでいるとときどき「自然主義」や「ケア」という単語に出くわしますが、どのような含意があるのか毎度分からず読み進めてしまいます。自然主義なんも分からん。おそらく広い意味を担える単語なのだと思います。ケアは、どうやら「家事」や「お世話」や「気遣い」などを含むようですが、個人間の志向にとどまらない、社会的、文化的または政治的な含みを見かけることもあります。

文脈に高い負荷をかける単語なので、使うのをやめたほうが経済的であるようにも思いますが、ケアも概念だとしたら、上述のように発見法的機能が期待されているわけなので、新しい概念を創出するきっかけになるのかもしれません。本書はフェミニズムの文脈で、しかも法哲学から議論するようでしたので、購入して読むことにしました。

本書では、終盤でケアの観念を以下のように整理します。長いですが引用しましょう。

ケアは労働(labor)であり、特に苦役とさえ表現できるような側面をもっている。それは多くの場合終わることが想定されている期限付きの実践である。 負担であるがゆえにその適切な分配がおこなわれるべきであり、正しい分配とは何かが考えられなければならない。(・・・中略・・・)
他方で、ケアにはその関係にあること自体がもたらすかけがえのない価値という側面がありうる。それは終わることが想定されない、それどころか時にいつまでも続くことが望まれることもある関係性であり、分配という観点にはなじまない。

p285

本書は、この分配を適切におこなうための仕組みとして法があり、その法源を法哲学として考察する、という建付けになっています。ただ、2006年から2019年のあいだに各所で発表された論文を9章に仕立て直しているため散漫な印象があり、また6章まではフェミニズムを扱っていてケアは後景にあるため、著者においても「ケア」を発見法的に扱い損ねている感じがありました。単に本書のタイトルが良くないのかもしれません。

第7章「家族の法からホームの権利へ」、その補遺「婚姻制度再検討のためのノート」、第8章「ケアを「はかる」ということ」はたいへん勉強になりました。特に、男女の性差が家庭におけるケア労働の偏りの原因にならないための婚姻制度の設計について、ロビン・ウエストの議論を用いながら進めるp242あたりは、章題に答える内容になっています。また、日本国憲法24条における「両性」の字句解釈を追うp268は、わが国の憲法が憲法典ではなく二次法典であることを思い起こさせてくれます。

気になったのは、本書には「~ではあるまいか」や「~ではないだろうか」といった放言が多すぎる点です。数えていませんが、9章まんべんなく使われていて100箇所以上ある印象です。私たち自然科学研究者が論文でで"could"や"sholud"ではなく"might"と書きたくなるのと同じ事情があるのではあるまいか

著者をして「あるまいか」を使わせてしまう事情とは何でしょうか。私は、それは「課題と事象の関係の既成事実化」だと考えています。本書は21ページにもわたる多数の引用文献(たぶん300本くらい)が含まれているので、本書もきっと他の論者に引用されるに違いありません。私たち自然科学研究者が論文を書くときに実践しているとおり、引用文献は強力な根拠づけになります。後代の論者が本書を引用することで、「ケア」と「法哲学」の関係は、学問的アイデンティティを強化していくと思います。
私は、それを発見法的機能とは呼びたくない気がしています。



生物学専攻あるあるというか、生物学ジョークなのかもしれませんが、こういうものがあります。
「誰もが書名を知っている有名な本なのに、誰もが読んだことのない本がある。『種の起源』だ」。私は進化生態学の講義で教授から聞きました。

かっぱ横丁で古い文庫本の『種の起源』を手に取ったのは、そういう不幸なジョークを亡きものにしたかったからなのかもしません。



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