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【VIVANT】なぜ人は伏線をありがたがるのか

Yahooニュースの記事タイトルに「「VIVANT」、見事に伏線を回収した最終回に「続編も期待」」とつけられているのを見て、素朴な疑問を抱いてしまいました。

そもそもどうして、伏線は回収されなければならないのでしょうか。

もう一つ申し上げると、その伏線が「見事に」回収されたかどうか私たち視聴者はどのようにして判定できるのでしょうか。
見事に、というからには、伏線回収には、稚拙なものからエレガントなものまで幅広く想定されているのでしょう。

ということは、私たちにはどういうわけか、その回収の様式を審美的に判定する能力が備わっていることになります。さらに驚くべきことに、その判定基準は、誰もが理解できて、YahooニュースやSNSで共有できるほどなのです…!

私は、私が持っていない審美的基準を大多数の方々が備えているのを知って、自身がたいへん劣後していることを恥じました。そして思ったのです。
人はどうして伏線を考察したがるのか。
考察すると何が嬉しいのか。

そして、その考察の巧拙は、どのようにして他の人に判定されるのでしょうか。


脚本の魅力のひとつに伏線の付置とその回収が据えられるようになったのは、少年ジャンプなどの週刊少年誌の影響が大きいものと思われます(出典不明)。近年の諸作品においては、ワンピース、タコピー、チェンソーマンなどについて、YouTubeで頻繁に考察動画を目にします。映画においてはユージュアル・サスペクツを挙げなければならないでしょう。

人が「伏線」を認知するためには、以下の条件が揃わなければなりません。すなわち;

①とある事象Bが、別の事象Aと独立に視聴者に提示され、
②事象Aが発生し、
③物語の進行にしたがい事象Aの原因が事象Bだと明かされ、
④視聴者が、まさしく事象Bこそ事象Aの原因だと同意できるとき。

この伏線認知に関する人々の反応のいくつかは、以下のように分類できます。

②③なしに①が生じると、人は「未回収の伏線がある」といって不満げにSNSで語り始めます。
①なしに③が発生すると、人は「ご都合主義だ(後付けだ)」といって憤りを表明します。

重要なのは、一般に私たちが「考察」と呼ぶのは上記の③のうち特殊なケースで、物語の進行を待たずして視聴者が③を先行することだということです。
そして、それら考察の巧拙には次の2タイプがあります。

1.物語の進行よりどれだけ以前に④を周知できたか、
2.①の発見の困難さをどの程度説得的に周知できたか。

いわゆる「考察班」は、上記1.からいって、物語の進行を先行しなければ考察を実施できません(注1)。考察は物語の外にあるのです。また、単に事象Bを発見しただけでは不十分で、その合理性を他人に周知し丁寧に敷衍しなければなりません。そうでなければ「〇〇氏の考察がみごと的中!」と褒められないのです。

VIVANT第9話の直前の放映枠で、ドラマ登場人物たちが役柄を離れてプロモーションをしている特番がありましたね。一般的には、役柄を離れて演者本来の性格を提示することは、その物語の世界観を破壊することに繋がります。本来避けるべきことと考えられてきました。
ところが、その放映は堂々と実行されました。その和気あいあいとした様子を見て、私は「ああ、考察に最適化するとこうなるんだな」と感じました。最終話当日に制作側から「ドラムは最後まで良い人です」とリークがあったのも妥当なことです。ユージュアル・サスペクツは28年の歳月を経て、ついにVIVANTに激突したのです。


考察することによって、人はその物語の中に耽溺しつつ、その物語の外部にも居場所を発見できる。「物語」を、筋書や運命と言い換えては語弊があるでしょうか。

私たちは、自らが置かれた運命を超克したいのです。だから考察にいざなわれる。しかしまったくの逸脱や放埓が求められているわけではありません。考察することによって、あらかじめ定められたものとは異なる幸福が見出されなければなりません。見出されるか否かは、考察することの自分自身の努力に宿されている。自分の力でみずからの運命を切り開ける達成感があります。だから考察する。

VIVANTを見ていて思ったのは、この多彩な登場人物のうち、私は誰に感情移入したらいいのだろうか、という点でした。私の平凡なパーソナリティや人生を踏まえると、誰にも共通点が見出せないし、親近感がわきません。視聴者は常にVIVANTの物語の中には居場所がないのです。だから考察するしかない。だって、この魅力的な物語の中には、自分の居場所はないのだから。それでも物語に接近したい。接近するのに最も低コストな方法がたまたま「考察」することであり、そのように誘引できるよう、伏線の認知が最適化されたのだと思います。

物語の定めを拒否しつつ、考察することの強制を、定められた通りに受容する──私はそのことを悲しいことだとは思いませんし、なにも嫌な思いをしていません。スクリプトの工学の精度にただ感嘆していますし、そのことを賞賛したいと考えています。


サスペンスという様式は、原因(事象B)が示されているのに結果(事象A)が宙ぶらりん(suspended)のまま強いられる、という点に特徴があるとされています。推理小説はその逆で、結果(事象A)から原因(事象B)を導いていく論述の運びに巧拙があるのでしょう。

では、VIVANTは推理小説のひとつなのでしょうか。

アリストテレスが『詩学』において優れた悲劇の特徴として挙げたのは、原因(事象B)と結果(事象A)の落差だとされています。これは、上述の2.に該当するのかもしれません。

すると、VIVANTは、すぐれて悲劇的な物語だったということになります。私たち視聴者は、古代ギリシャ人が悲劇を観劇して涙したのと同じ理由で、ベキの革命思想に胸を打たれ、乃木憂助の職業的使命の運命に、その定めに、悲しさを覚えたのかもしれません。

考察の果てに──物語の外に──物語の内部に耽溺できる。その仕掛けこそがVIVANTの優れた点だったと思います。



注1: 完結した物語の考察はというと、主に④の説得性に注力されるはずです。これは結局上述の1.および2.を指します。

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