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【読書】2023年3-4月に読んだ本

コードウェイナー・スミス『スキャナーに生きがいはない 全短篇①』所収の「夢幻世界へ」の冒頭部分の一部をDALL・E 2に描かせたら上のようなイメージを得ました。コードウェイナー・スミスいいですよねえ。初めて触れたのは10年くらい前です。改めて読み直してみると、セリフを受けて続く地の文のドライさがとてもさっぱりしていて、素晴らしく素晴らしいです。

ちなみに「夢幻世界へ」の冒頭の一部というのは以下のとおり。

その黄金の姿態は、黄金のきざはしの上で狂った鳥のようにわななき、はばたいた──知性と魂を授かった鳥が、ひとの理解も及ばぬ官能と恐怖におそわれ、狂気へと落ちていくように。──官能そしてまた官能を束の間この世のものにし、比類ない芸術が極められていく。一千の世界が見守っている。

コードウェイナー・スミス『人類補完機構全短篇① スキャナーに生きがいはない』所収「夢幻世界へ」(一部のかなを漢字に改変)

3月は研修で2週間東北に行っており、帰ってきたら新設部署への人事異動が待っていました。前部署の今後の計画・引継ぎと、私の気持ちの切り替えと、新業務の計画立案とを平行して実施していました。知らず知らず心理的に負担がかかっていたようでとてもぐったりしています。

そんな中で読んでいたのは以下の本です。


ジョン・マクミラン(瀧澤弘和、木村友二訳)『新版 市場を創る ─バザールからネット取引まで─』(慶應義塾大学出版会)

モノ・サービスの対価が発生する場所「市場」の機能が損なわれるのはいかにしてなのか、を示す事例を現代世界の南北から複数ピックアップして、より望ましい市場制度設計の姿をこんこんと説いています。

著者は、計画者は意思決定に必要な情報を結集できない(p212)、競争的市場が行っているのは本質的に情報の生成である(p263)、市場がうまく機能するためにどのような公共財が必要なのか(p231)、などを示そうとしています。

p117あたりの電波周波数帯オークションの事例など読んでいると、「イノベーションとは定義が不十分だった領域を切り分けて所有権・財産権を定義することである」などと思えてきました。

また、読みながら、本書に書かれていない多くの示唆を得ました。企業の職場には、個人間部門間を渡っていく業務に「取引費用」が配賦されており、部門長は、この取引費用の負担の勾配を可視化したり、意図的に増減させたりしています。何のために?部門全体および部門長自身の労働の、市場価値を高めるためです。

私自身が職場で、どんな業務の取引費用をどうやって調整し、自身の市場価値を調整しているのか、反省したいと思います。



・富山豊『フッサール 志向性の哲学』(青土社)

私は哲学の高等教育を受けていませんが、そんな私にも分かるくらい、かつてない度合で丁寧に丁寧に論を進めています。こんなに丁寧に書かれた本を読んだのは初めてです。

「我々がそれについて考え、我々が経験する対象は、紛れもなく本物の対象そのものである。この関わりを可能にしているのが、これまで考察してきた「志向性」という我々の経験の構造なのである。(p240)」にたどり着くまで、たっぷり敷衍しながら、また、ありがちな質問に都度都度反論しながら進めています。

本書でも言及されている『ダメットにたどりつくまで』は現代現象学ブックフェアのときに購入して2,3度読んだくらいなので、『ワードマップ現代現象学』とともに改めて読み直したいと思います。



・アーヴィング・ゴフマン(中河伸俊 、小島奈名子訳)『日常生活における自己呈示』(ちくま学芸文庫)

これはまだ150頁くらいしか読めていません。じっくり読み読みします。読みながら、私のこれまでの部署内ミーティングや1on1のときの自分自身を振る舞いは、果たして「パフォーマンス」として適していたのかどうか、反省しています。

私は職場ではもうちょっと分かりやすいパフォーマンスをすべきです。そうでないとショーが成立しなくてメンバーが困惑します。また、私がメンバーを責める権利を行使できるのは、「状況の定義に与するパフォーマンスになっていないとき(そしてその時に限る)」、というふうに考えられるようになりました。良い管理者になりたいものです。

p110が素敵ですね。少し長いですが引用しましょう。

社会学的な考察にとって重要なのは、少なくともこの報告の立場からいえば、日常のパフォーマンスのなかで作り出された印象は攪乱の対象になるということだけである。いったん作り出された現実についての印象を壊すことができるのは、どんな種類の現実についての印象なのかを私たちは知りたい。どれが本当の現実なのかという問いは、他の研究者にまかせておけばよい。「あるすでに作り出された印象の信用はどのようにして失われるのか」というのが私たちの問いであり、それは、「あるすでに作り出された印象はどんな場合に虚偽であるのか」とはかなり違った問いなのである。

アーヴィング・ゴフマン日常生活における自己呈示

上掲の『フッサール 志向性の哲学』では、ここでゴフマンが拒否している「どれが本当の現実なのかという問い」を読んでいたような気がしていました。

これは単に私個人の読書体験の中でのつながりに過ぎず、このように感じてしまう読書体験にこそ問題があるのであって、これらの本の価値と著者訳者の業績を貶めるものではないのですが、おもしろいことだなあと感じています。


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