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愛のベクトル

多くの方が愛については関心があることだと思います、


ただ愛って見えませんよね、プレゼントなど物で例えた愛の表現もありますが、その中にある愛は見えません。



でも愛を信じ、言葉にする方は沢山います、それほどこの世界と愛は密接な関係があります。


なので愛に対する個々の価値観や定義も様々です、 


今回も私的視点ではありますが、愛についてお伝えさせていただきます。


今回も目次を用意させていただきましたが、愛が付く項目ばかりです、これは私のボキャブラリーの足りなさでもありますがお付き合いください(笑)


生き物としての愛

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愛といえば分かりやすいのが男女の愛があり、親として子を注ぐ愛があります。



これは生き物として性があり、本能でもあり成り立つ愛でもあります、


しかしそれだけではありません、人間の心がある愛とは「心の光を渡す」というという行為とも言えます。


なので親がしてくれた幼い頃の記人や人を愛し愛された時に心に響いた愛は他にも伝えてく、愛の連鎖があります。


ただこの愛が「与える」(わたす)なのか、
「奪う」(もらう)なのかで愛の方向性が
ガラッと変わっていきます。



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愛のベクトル

物事には対極があります。
何度かお伝えもしてますが簡単にいうと、昼があり夜がある、陰がありが陽あるということです。


愛を対極的な視点で見ていくと、
「与える」(わたす)と「奪う」(もらう)
の2つがあることに気付いてきます。


与えるは無償の愛であり、平穏なる心の表現を他に惜しみなく与える、


奪うは欲望の愛であり、自分の渇いた心を満たす自分の為の行為と言えます、


どちらも「愛」なんですが愛のイメージは与えると奪うだとどちらですか?という質問があったとしたら、与えるを選ぶ人が多いのではないでしょうか。


「与える」とは愛のベクトルが「他」であり、

「奪う」とは愛のベクトルが「自分」に向いてます。


少し話しを戻して先程の両親がしてくれた愛や人から愛された愛が、



「与える」なのか「奪う」なのかで心が受ける愛の影響が変わっていきます。


つまり「奪う」ことを愛としてしまうと「苦しいことが愛」と捉え、自分が愛する人にもこの連鎖をしてしまう繋がりもあるからです。


このことに意識を合わせていくと、
愛とは自分ではなく、他の幸福に向けることが本質であり「愛をより深くしてく始まり」とも言えると私は思ってます。



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慈悲と愛

ではこの「与えるのベクトルの究極」とはなんでしょうか、ここを辿っていくと、
やはり慈悲に繋がってきます。


この慈悲はブログ「神仏」や「空間縁起」でもお伝えしてますが、神仏の愛とは慈悲と言えるのではないでしょうか。


しかし「神仏の愛が慈悲」であるのならば私たち人間には捉えることがとても難しいです、


それをイエス・キリストという存在が、
人間の心が「慈悲」まで届くように、そして少しでも近づけるように段階を得て、噛み砕いて伝えてるのが「愛」ではないかと私は思っています。


そうすることによって、
「慈悲とは愛を発展させ続けた結果」
の成り立ちが見えてきます。



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性別を越える愛

こう捉えていくと「奪う」とは、
最低段階の愛であり、心の光という視点で見る「与える」以上が愛の本質ということが見えてくる方もいるのではないでしょうか。


ここで視点を今暮らしてる世界に戻してみます、


例えば私たちが渡してるプレゼントも多くの方が「相手が喜ぶ姿が見たい」や「気持ちの表現を渡す」という愛からですよね、


しかしこれは「物」を通してであり、私たちが「生き物として生きてる」という視点でもあります。


どう言うことかというと、
プレゼントの品物は「生きてる」間で使える限定であるが、プレゼントの品物の奥にある「愛」は「心」から見ると永遠であり心の資産であるということです。



ここでもっと深く見ていきます。
もしこれが魂、心という視点で捉えていくとしたら、「愛」は生き物としての性別や親子という関係を越えていきます。




なので心としてはもっと深い愛があるという繋がりができてきます。



つまり物で表現できる愛は私たちの生きる3次元という枠限定であり、生き物としての愛となります、



この枠を越えた先にあるのが、
「心の存在」として「与え尽くす」愛に繋がります。



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生きる愛と壊れる愛

ここで重要なのは生きる愛と壊れる愛があるということを知るです。


ここは私の経験を元に伝えさせていただきますね。


私が30代を迎えた頃に、なんとなく愛が与えるとぼんやり気づく瞬間がありました。


その愛はここにはあるがそれをどう表現していいのかがわかりませんでした。


なので「善行」と思うことを真似してみようというと思い真似をします。


電車で年配の方に席を譲るなどの簡単なことに見える行動も当時の私にとっては大きなチャレンジでした。


そこから少しずつ私が善行と思うことを積んでましたが心としての変化はありません、


するとある時に気づくことがありました、善行をした時に自分で「今日も良いことした!」「これが愛の表現だ!」「愛を実践してるぞ!」などと思ってる浅はかな自分がいたことです。


どう言うことかというと、
愛は他に与えるであるのに対して、自分に対して見返りや満たされようとする自分がいることに気づいたと言うことです。


それは与える愛ではなく、見返りを貰う愛(奪う)であり、そしてそう思った瞬間に愛は崩壊してました。


つまりこれが純粋な心だと「光輝く」愛ですが、ここに見返りや欲望が加わってくと愛は「黒く変色」し光ではなくなります、


これは見返りや欲望という力が加わることで「他のベクトル」ではなく「自分のベクトル」と言えます。


私のやった善行の真似は「知る」行為としては必要でしたが、重要なのはその形ではなく「愛の本質」に気づくことでした。


なので偽善から知ることもあります、しかしそれに囚われるのではなく、その本質とは何かを見抜かなくてはならないということです。


とお伝えしてる間に文字数が多くなってきましたのでここで一旦区切ります。


今回のまとめ

今回の内容をまとめるとすると

愛は
「与える」(わたす)と「奪う」(もらう)
方向性があり、

与えるは他の幸福がベクトルであり、
奪うは自分がベクトルになる。

与える愛の発展は生き物の枠を越えた愛であり、愛は見返りや欲望という自分のベクトルが加わると壊れる。

です。


今回も初歩的なことで終わってしまいました、文字にしていく大変さを学んでます(笑)


愛はこの地球で学べる素晴らしい心です、私の表現方法の下手さもあり伝わりにくいところもあると思いますが、愛が気になる方は何度も読んで下さい、読むほどにに気づく方法にしてます。


お付き合いいただきありがとうございました。

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