見出し画像

その名はカフカ Disonance 17

その名はカフカ Disonance 16


2014年9月ブダペスト

 ブダペストの街はずれにある、倉庫で運搬物を降ろした後の大型トラックが格納される車庫が密集したエリアにアントンが足を踏み入れたのは夕暮れ時で、辺りは既に薄暗かった。従業員たちも既にまばらだ。アントンは数日前に事務所を訪ねた家具製造会社が独占して使っている車庫を見つけ、中を覗き込んだ。トラックは一台も止まっておらず、がらんとしていた。中には、誰もいなかった。
 アントンは少し躊躇った後、車庫の中へ数歩進んで立ち止まった。そして、「こんなところに来て何になるのだろう、さっさと戻って、受けるべき処罰を受けたほうがいいのではないか」と心の中で独り言ちた。
 ワルシャワへ向かったハンスとフリッツとは、連絡が取れなくなっていた。二人とも何をやっているのだろう、こちらの言うことを聞かずにイギリスに戻っているのかもしれない、とも思った。自分は二人よりも階級は上だが、彼らの上司ではない。二人には、アントンの指示に従う理由がない。
 人気のない車庫の中で、アントンは先日の訪問を思い返した。大佐の昔の同僚とは言え、今は家具を売っている一般庶民だ、と甘く見ていたのが良くなかったのかもしれない。深刻な顔をして「大佐が行方不明だ」と言えば同情して「実は大佐にはヨーロッパ中に隠れ家がありましてね」なんて話を聞かせてくれるかもしれない、などと調子のいいことを期待して面会に臨んでみたが、全く歯が立たなかった。しかし、ここまで強い人格を持っている人物だと、逆に怪しい。本当に何も知らないのか、と疑ってしまう。その疑いを胸に、アントンは大佐の元同僚との面会が失敗に終わっても、まだブダペストを離れられずにいた。
 しかし、大佐がハーグに派遣されていた時は、表向きはロシア軍を退職していたことになっていたとは知らなかった。その時既に大佐はGRUに所属していたということなのだろうが、GRUのやることはどうも理解し難い、そう思いながらアントンは地面に落としていた視線を少し上げた。そして、車庫の隅に置かれている簡易な折り畳み椅子に、一人の男が座っているのに気が付いた。
 自分が車庫に足を踏み入れた時は誰もいなかったし、誰かがやって来た音も気配もしなかった、しかしそこに人間がいるのは事実だ、どうしたらいい、と混乱した思いを巡らせながら、アントンは立ち尽くした。車庫の中は外よりもさらに暗く、男は数メートル離れたところに座っていて、アントンからは顔は見えない。
 男は身じろぎもせず、暫くアントンを見つめていたが、ゆっくりと立ち上がると
「お兄さん、こんなところで、何してるの?」
と、ロシア語で聞いた。
 なぜ、ロシア人であることがばれたのだろう、事務所を訪問した際、顔を見られたのだろうか?この車庫はあの会社のものなのだから、あの日に事務所にいた人間がここにいてもおかしくない。しかし、あの社長が事業に関係ない個人的な訪問者のことを従業員に話すなどという軽率なことをするだろうか、そう考えを巡らせながら、アントンはベルトに装着したピストルに手を伸ばそうとして、自身の行動に困惑した。自分は、一般市民に危害を加えるためにここにいるのではない。
 男はその場に留まったまま、再び
「何してるのって、聞いてるんだよ?」
と言った。神経を逆なでするような、厭らしい話し方をする。どうすれば、外国語でこんな芸当ができるのだろう、そんな思いが頭をよぎったが、そんなことを考えている場合ではない、とアントンは目の前の男の動きに意識を集中させた。
 男は呆れたような声で更に
「お兄さん、話せなくなっちゃったの?」
と言って、アントンのほうへ少し歩を進めた。アントンは思わず
「動くな、私は武装している」
と小さく叫ぶように言った。
「へえ、そんな脅し方するんだ、軍人さんが、庶民を目の前にして。あ、お兄さん、もしかして有名になりたいの?ロシア軍人が任地でもないハンガリーで一般人を殺した、なんて、さすがに国際ニュースだよね。すごい発想だ」
 そう言いながら、男は更にアントンに近づき
「お兄さん、さっさと帰っておけばよかったのに。変に長居するもんだから、こんな危険なところに一人で来ることになっちゃって。危険って、もちろん車庫に戻って来たトラックに轢かれちゃうよっていう話じゃ、ないんだよ?」
と嬉しそうに言葉を続けた。
 アントンは、自分の内側で何が起こっているのか分からなかった。とにかくこの男に傍に来てほしくない。この男の話し方と振る舞いが、この暗がりも手伝って、おかしな気分にさせるのだろうか。
「お願いだ、それ以上近づかないでくれ」
 アントンはそう言うと、再びピストルに手を伸ばしたが、次の瞬間、アントンの両腕は後方へねじ上げられ、同時に膝の裏を強く打たれて、アントンは両膝を地面に打ち付け、跪いた。
 ゾルターンは、アントンの両足を踏みつけた状態でアントンの両腕を縛り上げながら、
「坊、兄ちゃんのその物騒なものを取り外してくれるか」
と言った。
 ペーテルは、跪いたアントンを見下ろしながら
「そんなもの、触りたくないよ」
と返して、二、三歩後ろへ下がった。
 ゾルターンは
「情けねえ坊ちゃんだな。演技力は抜群なのにな」
と言って呆れた顔をすると、後ろに控えている協力者たちに
「おい、もう出てきてもいいぞ。手伝え」
と叫んだ。
 アントンは必死になって
「私が何をしたと言うのだ、放したまえ」
と言いながらゾルターンから逃れようとしたが、ゾルターンは
「余計なことは話すな」
とだけ言うと、協力者の一人に顎をしゃくってアントンの頭に黒い布袋を被せさせた。
 アントンの頭に布袋が被せられたのとほぼ同時に、トラックが近づいてくる音が聞こえた。ペーテルは「お兄さん、さすがにビビっちゃうかな、トラックに轢かれるんじゃないかって」と、笑いをこらえた。
 トラックは車庫の前で止まると、車庫の中へは入ろうとせず、エンジンを切った。
 トラックを運転していた男は、トラックを素早く降りると、跪かされているアントンのほうを見やり、ゆっくりとした歩調で近づいてきて
「アントン、君はここで何をしている?」
と声をかけた。
 アントンは思わず首を後ろへひねったが、布袋を被せられていては、当然何も見えない。
「大佐、よく、ご無事で……」
 そう絞り出すように言ったアントンに、サシャは
「そんなに心配していてくれたとは、思ってもみなかったな。軍からの処置が怖かった、と言ったところが本音だろうが。俺の警護などという任務を担ったのが運の尽きだと思ってくれ」
と、何の感情も感じさせない声で言った。
「大佐、貴方は、ご自身の意思で……お逃げになったのですか?」
「それ以外に、何がある?」
「私には、理解できません。軍を、祖国を裏切って……何が不満なのですか?何を、なさりたいのですか?」
「アントン、君に理解できないのは当然だし、そもそも俺は君の理解を求めてはいない」
 そこで一旦言葉を切り、サシャはアントンの布袋の下の頭を見据えると
「今から君をある場所に連れて行くが、これから数日間、そこに留まってもらう。心配しなくていい、そこにはハンスとフリッツもいる。こちらの都合がつき次第、君たちは解放される」
と言って、ゾルターンに頷いて見せた。
 ゾルターンはアントンの体を引き上げて両足で立たせ、二人の協力者に両脇からアントンの腕を掴ませると、数分間踏みつけられ続けて自由の利かなくなっているアントンの足に歩くことを強制するかのようにアントンの背を押しながら車庫の外へ向かった。
 アントンを連れた一行が車庫を離れると、サシャは先ほどまでとは打って変わって親しみのこもった声で
「君が、ペーテル君だね。お父さんは、どこにいるんだい?」
とペーテルに話しかけた。
 ペーテルが答える前に
「サシャ、ブダペストへようこそ。何はさておき、無事の脱出を祝わなくてはね」
と言いながら、カーロイが車庫の暗がりから姿を現し、サシャに近づくと、サシャの右手を握り、肩を抱いた。
 サシャも左手でカーロイの肩を抱きながら
「大型トラックの長距離運転というのが、こんなに過酷な稼業だとはね。いい経験になった。しかし、君の会社がイギリスでも取引をしていたとは知らなかったよ」
と言った。カーロイは、サシャから少し体を放し、サシャの顔を見ながら
「していなかったんだが、今回貴公子君が無理やり注文を作ってくれたんだ。君のことが落ち着くまで、またイギリスとは商売をしないほうがいいだろうが」
と笑いながら答えた。
「俺と交代した君のトラック運転手は、あの後どうしたんだろう?」
「適当に遊んだ後、空路で戻ってきた。いい休暇になったと喜んでいたよ」
「アントンが、迷惑をかけたな」
「この程度で済んだんだ、なんてことはない」
 カーロイの返事に、サシャは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「俺たちがICTYを辞めた時、GRUが君たち四人に目を向けないように、からくりを仕組んでおいたんだ。だからGRUがICTYがらみで君たちを疑うことはない。ましてや、その後の俺たちの活動のことなんて一切感づいていない。しかし、アントンは単なる軍の士官で、俺のところに配属されたのも二年前だ。俺の今までの任務歴さえも知らされていないあの男が、俺の過去に、しかもICTYに目を付けるとは、さすがに発想しなかった。きっと真正面からハーグの資料に当たって、退職の時期から君とティーナを探り当てたんだろう。あとの二人の現状は、探しようがないしね。それでも、その資料を手に入れること自体も容易ではないし、頭脳と根気を要する作業であることには変わりはない。なかなかできる男ではあるんだ」
 サシャの言葉を聞いて、カーロイは
「しかし、仲間には引き入れたくないタイプだね。本人も、一生をロシア軍に捧げて生きていくつもりなんだろう」
とアントンの顔を思い浮かべるかのように空を見ていった。
「どうだろうな。俺のことで処分は受けるだろうから、それが彼の人生の転機になるかもしれない」
と、サシャが返すと、カーロイはサシャに視線を戻し
「今、大切なのはアントン君の未来よりも、君だ。まずは君を風呂に入れてやらねばな。そんな無精髭だらけの顔では、大使館に連れて行くわけにはいかない」
とわざと真面目な顔を作って言った。
「大使館にどんな顔で臨めばいいのかは、お洒落な君に任せておくよ。まったく君って奴は、自分の息子にさえ倉庫作業員の格好をさせているというのに、こんな時までそんな洒落込んだスーツ姿なんだなあ」
「悪いが、これが私の制服なんでね。君のためにも、君のサイズで素敵な一着を仕立てさせたところなんだ。気に入ってもらえると思うよ」
 カーロイの軽口を聞き流しながら、サシャは先ほどから何も言わずに二人の傍に立っているペーテルのほうを見て
「ペーテル君、君のことは昔からレンカにたくさん話を聞いているんだ。だから、いつ会えるかと楽しみにしていたんだよ。もっとよく顔を見せてくれるかい?」
と言うと、ペーテルをまだ多少明るさの残る車庫の外へ連れ出した。
 サシャはペーテルの顔を暫く観察した後、カーロイに
「若い時の君にそっくりだ、と言いたいところだが、どうもレンカのほうに似ている気がする」
と言って笑った。カーロイは肩をすくめると
「この子は外見も性格も、なぜか両親よりも叔母に似てしまったんだ」
とだけ返した。
 ペーテルは少し不機嫌な顔を見せ
「僕はおばちゃんよりずっと陽気な人間だと自己評価してるんだけど」
と言いながら、「おばちゃんみたいにシンプルな顔立ちの人に似てるって言われて、喜んだらいいのか悲しんだらいいのか分かんないや」と思った。そしてペーテルは、改めてサシャの顔を見つめると
「おじさん、凄腕のロシア軍のスパイだって父さんに聞いたから、どんな人なんだろうって思ってたんだけど」
と言って、少し躊躇った後
「意外と、普通だ」
と、不思議そうな顔をした。
 サシャはペーテルの言葉に吹き出すと
「ペーテル君、スパイって言うのはね、とにかく"普通"じゃなきゃいけないんだ。目立っていたら、話にならない。人ごみに紛れていなくても、会った人間の誰にも後で思い出させないくらい、"普通"じゃなきゃいけないんだよ」
と言った。
「普通に見えるようになる教育とか受けるの?スパイになるために?」
「まさにその通りだ」
「ふうん、面白そう」
 カーロイは二人の会話を愉快そうに聞いていたが
「そんな面白い話は後で充分楽しめるよ。さあ、車庫の裏に車を待たせてある。急ごう」
と言って、先に立って歩き出した。
 ペーテルはサシャと並んで父の後ろを歩きながら、サシャから目を離せないでいた。そして、「何だかまた面白いことが始まりそうだ」と心の中でつぶやくと、大きな笑みを浮かべた。


その名はカフカ Disonance 18へ続く


『Žena v Bukurešti』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆



【地図】


日本帰省に使わせていただきます🦖