その名はカフカ Modulace 20
2014年11月パッサウ
暖炉に火は入っていなかったが、運転手の男が言ったように、家中には暖房が行き届いており、応接間の中も一晩中暖かかった。暖炉の前のソファで、人が一人座れるくらいの間隔を置いてレンカの隣に座っているヴァレンティンは、イヤホンを耳から外すと
「せっかく面白いところだったのに、どうして切ってしまったんだい?」
と、全く面白いことなどなさそうな表情でレンカに言った。ヴァレンティンに貸していたのは予備の子機のようなもので、電源はレンカとエミルの使っているものにしか付いていない。
レンカもイヤホンを耳から外したが、手に持ったままでは手が震えていることに気付かれそうだと思い、ソファの側の低いテーブルの上に置いた。そのすべての動きを、ヴァレンティンの琥珀色の瞳が追っていた。レンカはヴァレンティンと目を合わせてみた。そして、後悔した。
ヴァレンティンはレンカの目を見つめながら
「なんて表情をしているんだい?おかしなことを、考えているんじゃないだろうね?」
と何の感情も籠らない声で言った。レンカは、少なくとも自分の今の表情は想像がつく、しかし果たして今自分が考えていることはおかしなことなのだろうか、と思いながら、微かに震える声で
「あの人は、もう誰も殺さないわ」
と答えた。レンカの言葉を聞いた瞬間、ヴァレンティンの瞳が放つ光が強くなったような気がした。
「レンカ、君まで情に流されてどうするんだい?冷静になろう。あの二人は今、悲劇の主人公になりきっている最中なんだ。自分たちの置かれた状況に酔いしれて熱くなっているだけなんだよ。蓋を開けてみれば、二ヶ月後くらいには取るに足らないことで喧嘩して別れる程度の関係かもしれない」
「そんなこと、誰にも分からないじゃない。どうしてあなたはそういう意地悪な言い方ばかりするの。……私は、エミルがこれ以上苦しむのを、見たくないのよ」
「話にならない。あの青年が今までどれだけ苦しんできたのかは、君が一番よく知っているんじゃないのかい?これまでの人生で既に相当な苦労をしている上に、未だに問題児の妹を抱えて生活している。そんな彼に、更にあんなお荷物を背負い込ませる気かい?」
「……言っている意味が、分からないわ」
ヴァレンティンはレンカから目を逸らさず、口の端だけで笑った。
「分かっているのに分かっていないふりをしているだけだ。あの女がどれだけ彼の負担になるのか、君に想像がつかないわけがない」
レンカはヴァレンティンと目を合わせたまま、必死になって今自分の置かれている状況を理解しようとした。
ヴァレンティンは、今更消し去れないあの殺し屋の過去を責めているのではないのだろう。もちろん雇われて人を殺していた過去は、決して気持ちの良いものではない。非合法を常識とする犯罪組織を構成しているとは言え、カフカが人の命で商売をする人間たちを忌み嫌っていることはレンカもこの仕事を始めた当初から知っていた。しかし、彼らが見るのは自分たちの味方となる人間の「現在」であり「過去」ではない。犯罪組織に関わろうという人間の過去に囚われていたら物事は先に進んでいかない。
ヴァレンティンにも、あの女が人を殺害することに何も感じない、心を失った殺人鬼なのではないことは分かっているはずだ。先ほどエミルに言われたことを女が本当に理解したのなら、今後彼女が同じ仕事を続けることもないのだろう。レンカの部下の女が「レンカ殺しに雇われた」という偶然の産物にも、それに対してその部下が事が起こる前に何の対処も成し得なかったことにも、ヴァレンティンは既に何の意味も見出してはいない。ただ、ヴァレンティンは、良心を眠らせてしまうことなく殺しに手を出した人間を、とてつもない罪悪感に苛まれこれからも苦しみ続けるであろう、言わば心に病を巣くわせた人間を、自分の大切な部下に抱え込ませる気なのか、そうレンカに言っているのだ。そして、レンカが許さなければ、エミルは女のほうを諦めるであろうことも、ヴァレンティンは充分承知している。
レンカは自分の呼吸が浅くなっているのを感じながら、ヴァレンティンの目を見つめたまま
「それでも、私は、あの二人を信じたい。あの二人なら大丈夫だって、信じたい」
と言った。
レンカの言葉を聞いて、ヴァレンティンの顔から笑いが消えたが、レンカには怒っているようにも見えなかった。ヴァレンティンはおもむろに右手を上げると、人差し指から小指までの四本の指でレンカの左の頬に触れた。それから親指で唇を、まるでその形を確かめるように撫で、そして左の頬全体を掌で包み込むようにして、手の動きを止めた。レンカは、ヴァレンティンが何を考えてそんなことをしているのか、全く見当がつかなかった。距離を置いて見ているよりも大きくて、温かい手だった。そして、とても懐かしい感じがした。
「……不用意に私に触れると、アダムに叱られるわよ」
「アダムは寛大な男だ。この程度のことでは叱らない。それに、不用意に君に触れているつもりもない」
「じゃあ、どんな意図があって、そんなことをしているの?」
「君に、僕の怒りが伝わるかもしれないと思って」
随分と風変わりな怒りの伝え方だ、と思いながらレンカが
「私を、首にするの?」
と聞くと、ヴァレンティンは無表情のまま
「そう易々と鞍替えをするつもりで飼い主を選んだのではない」
と言って素早くレンカの頬から手を離し、立ち上がった。そして数秒間レンカを見下ろしていたが、何も言わずに身を翻し、応接間から出て行った。
ヴァレンティンがドアを閉めると同時にレンカは震える手でテーブルの上のイヤホンを引っ掴んで電源を入れ、右耳に挿し入れた。
「エミル?聞こえる?通信切っちゃってごめん。まだ同じ場所にいるの?大丈夫だから、今から迎えに行くから」
そう話しかけたところで、テーブルの上の消音設定にしてあったスマートフォンに着信があったことに気が付いた。手に取って確認すると、数分前にサシャからかかってきたものだった。レンカはエミルに
「繋いだままにして、ちょっと待ってね」
と言うと、サシャに電話をかけ直した。サシャは瞬時に電話に出た。
「レンカ、くだんの殺し屋に付けていた監視役が判断に困って俺に連絡を寄こしてきた」
「その人、まだその場にいるの?」
「もちろんだ。女の行動は基本的に制限しないように言い渡してあったから、女がイリヤ・ドリャンと接触して奴を攻撃しようとしたのも気楽に構えて見物していたらしいんだが、そこに別の男が現れて女の武装解除をした。だからてっきりその男はドリャンの仲間だと思ったら今度はドリャンが逃げ出したそうだ。ドリャンのほうは、タイミングとしてはその直後だな、拘束されたとカーロイから連絡があったが、残った殺し屋とその……その、なんだ、その男は君の秘書君なのか」
「その見張りの人、腕が立つ人なのかしら。そのまま二人を護衛してもらえたら嬉しいんだけど」
サシャは一瞬黙ったが
「分かった。すぐ伝える」
と言って電話を切った。レンカはすぐさまエミルに
「エミル、すぐ傍にあなたたちを守ってくれる人がいるから、取り敢えずその人を頼って。私もすぐそっちに向かうから。通信は切るけど必要があったら電話するから、心配しないで」
と畳みかけるように言ってイヤホンの電源を切り、テーブルの上に置いてあった電話やイヤホンの予備をかき集めてジャケットのポケットに投げ入れると立ち上がったが、そこで初めて「ヴァレンティンを怒らせてしまった自分に、今ここにどういった移動手段があるのだろう」と思い至った。しかし、ぐずぐずしているわけにはいかない。外に出れば何とかなるかもしれない。そう自分に言い聞かせ、応接間のドアに大股で歩み寄りドアを勢いよく開け放ったが、レンカは部屋の外へ足を踏み出すことができなかった。そこには、レンカをこの家まで連れてきた運転手が微笑みながら立っていた。
レンカが言葉を失い狼狽えていると、運転手の男は
「せっかちなお嬢さんですね。落ち着いてください。貴女の部下もそうとう賢くお強い方だと聞いています。貴女が焦って駆けつけたところであまり意味はありません。貴女がいちいち心配しなくても、彼はご自分で何とかなさるでしょう」
と言った。レンカは「エミルは一晩中働いた後でしかももう一人自衛もままならない状態の人間を抱えているというのに何を抜かすかこの男は」と思いながら、男をほとんど睨むように見据え
「私を、行かせないつもりですか」
と返した。
「もちろん貴女は今から大切な部下の元へ向かうのですよ。ただ、焦っても意味がない、と言っているのです。まずご自分の荷物をすべて持ってください。ここを出たら、貴女は部下を拾った後、プラハへ向かうことになっています。ここへは戻って来ません」
そう言うと、男は暖炉の前に置いてあるレンカの鞄に目をやった。レンカは急に恥ずかしくなって暖炉の側に戻ると鞄を持ち上げた。男はまるで小さな子供に「よくできました」とでも言うかのような顔をしてレンカに頷いて見せ、レンカはますます気恥ずかしくなってきた。
レンカが手に鞄を提げてドアの側に戻って来ると、男は
「いいですか、今から言うことをよく聞いてくださいね」
と、やはり小さな子供に言い含めるように話し始めた。
「庭の前に車が待っています。運転手は私ではありません。私は街中はよく走れるんですが、田舎道や長距離はどうも苦手でしてね。もっと上手いのが貴女を乗せて行きます。そして貴女が心配しているお二人を拾ってからプラハへ向かいますが、その運転手が必要を感じたら途中で車の乗り換えがあるかもしれません。そういった場合は運転手の指示に従ってください。そして、これは一番重要な注意事項なのですが」
男はそこで一旦言葉を切ると、レンカの目を見つめた。
「パッサウを出て、そうですね、せめてチェコに入るまでは、一切車の外へ出てはなりません。いいですか、イリヤ・ドリャン氏が自由の身でなくなった、その時点で貴女の危険が終わったわけではありません。あの男に情報提供した人間がいる。貴女がこの辺りに滞在している、と。その人間に関しては、まだ調査中です。誰だかは、まあ、坊ちゃんは分かっているようですが、そう簡単に潰せる相手でもないようです」
レンカは神妙な顔をして男の話を聞いていたが、男が話し終わると
「あの、何から何まで手配していただいて、ありがとうございます」
と礼を言った。それを聞いた男は小さな笑い声を漏らした。
「何が、可笑しいのですか?」
とレンカが聞くと、男は
「いや、失礼。私は坊ちゃんのご指示に従っているだけですから。私は坊ちゃんの決定をお伝えしたまでです」
と答えた。つまりは礼を言う相手が間違っていると言いたいわけか、とレンカは少し居心地が悪くなった。男はレンカの表情を観察しながら
「貴女は私よりずっとお若いから、どうしても偉そうな口を利いてしまいますが、坊ちゃんが大切にしている貴女にはもっと腰を低くしているべきなんでしょうねえ。私の振る舞いで気分を害されたのなら、謝ります」
と言葉を続けた。
自分がヴァレンティンに大切にされている、という言葉を「ああ、そうですか」と聞き流して良いものか、わざわざ否定するのもおかしいか、と迷い、レンカは遠慮がちに
「あの、私が彼にとって、どのような人間なのかは、聞いていますか?」
と尋ねた。男は微笑んだまま
「重要なお仕事を任せているご親友だと、伺っています」
と答えた。そして
「おっと、坊ちゃんの言葉をこんなに簡単に外に漏らしてしまうとは、私もおしゃべりが過ぎますね。お急ぎのところ余計なことを言って時間を取ってしまいました。どうぞ、慎重に行動なさってください」
と言って、男はレンカを玄関のほうへ促した。
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