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その名はカフカ Modulace 21

その名はカフカ Modulace 20


2014年11月リュブリャーナ

 ただ待つ、というのは辛いものだな、という台詞を頭の中で何度か繰り返し、スラーフコはハンドル越しにメーターパネルに表示されている時刻を確かめたが、まだマーヤが車を離れて五分くらいしか経っていなかった。
 この日のためにマーヤとスラーフコはヴクの同僚の仲介で中古車を手に入れ、リュブリャーナまでやって来た。目的が目的だけに、スラーフコの仕事用の車は使う気にはなれなかったし、レンタカーも足が付きそうだとマーヤが言ったので、やめておくことにした。ヴクも心配だから二人について行こうかと申し出たが、やはりマーヤが「急に仕事を何日も休むなんて職場で立場が悪くならないか心配だわ。ビザも出してもらえそうなんだから今はできる限り良い印象を植え付けておくべきよ」と言って断った。そう言えば、ヴクは最近言葉数が多くなった気がする。それに以前よりも声が大きくなった。スラーフコは最近になってやっとヴクのスロヴェニア語はかなり流暢であることを知った。やはり環境が悪かったのかな、と思う。こんなに若くしてスロヴェニアに住み着いたのだからスロヴェニア語の習得も早かったのだろうが、ドリャンに顎で使われていた時には言いたいことも言えなかった、それなら話さなければいい、という発想になっても仕方がない気がする。ドリャンの理不尽な人使いはこれだけに留まらず、彼のマーヤの扱いも酷いものだったようだし、スラーフコも十五年も務めていながら一番重要な任務は清掃だった。
 こんなにいろいろなところに綻びのある組織だったというのに、スラーフコは「ボスの采配が適切だからこそ大きな事件も被害もない。だからそのボスが横柄で理不尽極まりない振る舞いで仕切っていても、それは目を瞑るべきところなのだろう」と思い込んでいた。実のところ、大きな事件に巻き込まれずに済んでいたのはこの土地が平和であるおかげ、それだけのことだったのかもしれないなと今更ながら思う。
 思考がドリャンの組織で働いていた頃の回想に飛んだおかげで暫く時間を確かめずにいられたが、と思いながらスラーフコが再び時計に目をやると、時間は更に五分ほど進んだだけで、午後一時半を過ぎたところだった。スラーフコは大きくため息をついた。
 今日の計画は、いろいろと不確かな部分が多い。まず、銀行が代理で来た秘書を受け入れてくれるのかが疑問だ。入れてもらえたところで、まだ問題は残る。マーヤのことだからすんなりドリャンの金庫までは辿り着くことだろうが、ナスチャの残したあの四つの数字が暗証番号だと、誰が保証できるだろう。そして金庫をその暗証番号で開けられたとして、何が入っているのかは分からないのだ。金庫に預けられるのはもちろん金目のものだけではない。ドリャンの幼少期の日記なんていうのが出てくるかもしれないし、サラエヴォ時代の次なる証拠品が出てくるかもしれない。もしかするとドリャンは人知れず趣味で小説を書いていて、その原稿を隠しているかもしれない。可能性は無限大だ。
 イリヤ・ドリャンが公的権威に拘束された、という話が流れてきたのは先週の話だ。それが事実ならメディアに取り上げられてもいいはずだが、スラーフコが目を通した新聞にもテレビのニュースにも、ドリャンに関する報道は見られなかった。公的、というだけでスロヴェニア警察なのかもっと別の機関なのかも分からない。スラーフコは「信憑性がない噂話だな」と思ったが、マーヤは「今がチャンスよ、リュブリャーナの銀行の金庫を見に行きましょう」と目を輝かせた。スラーフコが「ドリャンがまだ自由の身で、本人に嗅ぎつけられたらどうするんだ」と尻込みをすると、マーヤは「この情報は確実だと思うの。きっと何かの事情で表に出てないだけで、ドリャンが捕まったって世間に知れ渡った後では、それこそ金庫になんて近づけないわ」と答えた。
 マーヤが銀行へ向かって三十分が過ぎた。ただ待つのは辛いという言葉を百回は繰り返したかもしれない、と思ったところでサイドミラーにマーヤの姿が映った。この日は久しぶりにドリャンのところで働いていた頃と同じくらいの厚化粧だ。この数ヶ月でスラーフコはマーヤのほとんど化粧をしていない顔にすっかり慣れてしまい、久しぶりに見るこのマーヤの舞台女優のような顔には違和感しかない。スラーフコは「ここまで行くとお洒落と言うより変装レベルだな」と心の中で独り言ちた。しかし、マーヤの顔は笑っている。用意していったスーツケースも苦もなく転がしているようだから、金庫の中で金塊が山になっていた、という話ではなかったようだな、と思いながらスラーフコはドアのロックを外した。
 マーヤは後部座席のドアを開きスーツケースを積み込むとドアを閉め、今度は助手席のドアを開けて素早く乗り込んだ。そしてスラーフコににっこり微笑みかけると
「さ、次の目的地へ向かいましょう」
と言った。
 マーヤの言う「次の目的地」は、ポルトロシュだった。スロヴェニアにも、海はある。イタリアとクロアチアに挟まれたたった四十キロメートル強の海岸線だが、いくつもの街がリゾート地として発展している。ポルトロシュはそのうちの一つだ。しかし、スラーフコは事前にマーヤからその計画を聞かされていたものの、半分冗談だと思って聞き流していたのだ。しかも「首尾よく行ったら向かう」という条件付きで話していた。つまり、ここまでは計画通り行ったのだ。
 スラーフコは言われるがままにエンジンをかけたが、遠慮がちに
「それで、そんなリゾートで、何をするんだ?」
と聞いた。マーヤは可笑しそうに笑って
「スラさん、今聞くのね」
と返した。
「まさかこんなにすんなり運ぶとは思ってもみなかったんだ。だから後のことは考えられなかった。それで、銀行では何の問題もなかったのかい?」
「ええ。銀行員は私を信用してくれたし、あの暗証番号は正しかったわ」
「それで、中には何が入ってたんだ」
 そう言いながらスラーフコは車を発進させた。マーヤは付けられていないか確認するように外に目をやったが、楽しそうな声のまま
「それは、後で見せてあげる」
と返事をした。
「ポルトロシュでは、何をするんだ?」
「少し、遊んで帰りましょう」
「……私も君も丸々二日仕事を休んで来たんだ。銀行だけなら半日で済んだ。私はてっきり、マーヤに具体的な計画があるのかと思って」
 そこまでスラーフコが言うと、マーヤはスラーフコの方を振り向き、スラーフコの言葉を遮るように
「怒らないで。理由はあるのよ。一つは念のため直接マリボルに帰りたくないから、もう一つは、証拠隠滅したいから」
と真顔で言った。
 スラーフコが
「証拠隠滅、とは」
と聞くと、マーヤは再び大きな笑顔を見せて
「鍵よ。ボートに乗せてもらって、海に落としましょう。そのあとは海の精が預かっておいてくれるわ」
と楽しそうに答えた。

「あのお嬢さんの笑顔でいくと、万事うまくいったようですねえ」
 助手席で双眼鏡を覗きながら男が楽しそうにそう言うと、ルツァも安堵のため息をつき、「ドリャンもなかなか器用な女を使ってたんだな」と心の中でつぶやいた。
 隣に座る男は、今日は山高帽は被っていない。あの日は本当にファッションではなくカメラ装着のために被っていたんだな、と思いながらルツァが男の頭を見ていると、男がルツァのほうを振り返り
「あなたも、見ますか?」
と聞きながら双眼鏡を差し出した。ルツァがすぐに返事をしないのを見て、男は上着の内側からもう一台の双眼鏡を出し
「遠慮なさらず。二人で楽しめます」
と楽しそうに言った。ルツァは二人並んで一緒に双眼鏡を覗いている構図を思い浮かべ
「いや、いいです」
と断った。男がドリャンの元部下たちが乗った車のほうへ目を戻すと、ちょうど車が走り始めたところだった。
「追います?」
「いやいや、今日は彼らの銀行での働きぶりの確認に来ただけですから。後は自由に遊ばせてあげましょうよ。おかげでドリャン氏が釈放されても何一つ残っていない状態になったのですし」
「あ、まだ娑婆に出てくる可能性、あるんですか」
 ルツァがそう聞くと、男は横目でちらりとルツァを見た。
「ドリャン氏の出身がセルビアだと、ご存じでしたか?ほぼ完璧にスロヴェニア語を話すようですし、イリヤなんてスラヴ語圏ではありふれた名前ですから、気が付いていた人も少ないのかもしれませんが。内戦当時、世界では『セルビア悪玉説』が強かったですね。そしてその後のICTYの裁きに関しては『セルビアに対してより厳しいのではないか』との批判が強い。私もICTY内部のことは分かりませんが、また新たにセルビア人の逮捕者を出す、というのは世間受けが良くないんじゃないか、という意見が出てもおかしくありません。彼は政府や軍の要人だったわけでもありませんしね。そういった忖度で判断が下されてしまう可能性も無きにしも非ず、です」
 男は静かな口調でそう説明したが、視線を車の走り去った方角へ戻すと、再び楽し気に口を開いた。
「しかし、よくできるお嬢さんですね」
「確かに、顔を塗ったくってドリャンの人形をしているにはもったいない」
「どうです、スカウトしてみては?聞いたところによると、スロヴェニアで我らが組織から活動している人はあなただけだとか?」
「確かに俺の上司が置いてるのはスロヴェニア国内では俺だけなんですが、俺も結構自分で使える奴らを持ってましてね。クロアチアにいる連中とも繋がりが強いし、そんなに不自由してないです。それに」
 そこで言葉を切ったルツァに目を向けると、男はにたりと笑った。
「それに?」
「それに、あの嬢ちゃんとセットでもれなくあの鈍臭い色男が付いてくるのがいけない」
「そうでしょうか?まだそんな深い仲ではなさそうですが」
「いわゆる惚れた腫れたの仲になってくれれば話は簡単で、ちょいと工作して関係を壊すのは屁でもないんですが、こう、何て言うんですか、親子か兄妹みたいになられると、逆にそっとやちょっとじゃ崩れない絆になる」
 男はルツァの言葉をにこにこしながら聞いていたが
「世の中、外から見ていたのでは何とも解せない人間関係、というのがなかなか多いのですよねえ」
と言ってからルツァのほうへ向き直り
「この度も大変お世話になりました。そろそろ出していただけますか、国境を越えたあたりで今日も乗り換えのお車を用意してあります」
と続けた。
 ルツァは男の言葉に頷き、車を発進させながら「このオヤジ、この性格に慣れれば一緒に仕事をするのもけっこう楽しめるのかもしれない」と心の中で独り言ちた。


その名はカフカ Modulace 22へ続く


『Je také v moři vodník? Ano, ano, jsem tu pro tebe, miláčku』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆
何かを思い出させる構図だなと思ったら2012年に描いたアクリル画だった。



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