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言葉による創作

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気が向いたときにやっている言葉による創作です。短編、俳句、詩など。
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#掌編

椿の雫よ、その愛しき存在よ

椿の花が乱れ咲いたころ 椿の花々の間から 零れ落ちるように まるで椿の露を集めたかのように 現れた生命体 息を呑むほど美しい 漆黒の髪に深紅の唇 瞳は二粒の黒曜石 肌はそう 椿の雫と同じように透明で 私はその生命体を「椿姫」と名付けて愛でることにした ところが当の椿姫 私が「椿姫」と呼び掛けたとたん その名は気に食わぬと 私を黒曜石の瞳で睨みつけた 何が気に食わぬと言うのか こんなに美しいあなたには最もふさわしい名だと あなたを愛でるために付けた名だというのに お主わ

その名はカフカ【ピリカ文庫】

 リンツで最後の乗り換えをし、窓際の席に腰を下ろした途端、どっと疲れが押し寄せてきた。コンパートメントには私の他には誰も座っていない。窓の外の景色は夕日に彩られ鮮やかだったが、もうすぐ夕闇に飲み込まれてしまうのだろう。それでもかまわない。オーストリアを抜けてスロヴェニアに入るまではどうせ山しか見えないのだ。  列車が走り始めてほどなくして 「お飲み物、軽食などはいかがですか?」 コンパートメントの扉がゴトゴト音を立てて開かれ、給湯ポットやペットボトル、サンドイッチ、菓子など

浮き彫りバッカスは葡萄を見つめる

初めに異変に気がついたのは、ガラスの大皿が割れたときだったと思う。その厚手の透明ガラスの皿を父方の祖母から譲り受けたのは20年ほど前だが、彼女の嫁入り道具の一つだったのかもしれない。少年の姿のバッカスが手にした葡萄の房を見つめるレリーフが裏面から彫り込まれていて、今同じものを手に入れようとしたら相当な金額になると思われる、手の込んだ作りだった。このような大皿は我が家にはこの一枚しかなく、ずいぶん重宝していたのだ。 ところがある日、真っ二つに割れてしまった。焼きたての丸パンの