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「おい、オレの命令が聞けないのか!」と現地法人の社長に怒鳴られた・・・・けど

(前号からつづく)

日本を代表するエクセレントカンパニーであり、日本の産業をけん引する大手自動車メーカーで働いていた私は、入社10年目にしてずっと希望していた海外駐在のチャンスを得た。1992年1月だった。
ただし、駐在先はイタリアのド田舎の二輪車製造販売会社。ローマから東へ250km走り、途中3000m級の山脈を越えた先のイタリアの僻地だった。もっと言うと、東京青山の本社高層ビルで10年を過ごした私にとっては、地球の果てとも感じられた。

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住まいを構えたのは人口3万5千人の田舎町。もちろん、街に出るとイタリア語しか通じない。住民たちは日本人はおろか東洋人なんて見たこともない人々。そんなところに、当社から日本人3人とその家族が派遣された。私は経理財務部門の所属で、そのほか総務、IT、などの管理部門が管轄だった。
幸い社内では、数人のマネジャーが英語を話すので、最初の数か月はその数人とだけしか私はコミュニケーションできなかった。

この現地法人はローマに本社があり、そこが営業やサービスの活動拠点である。そのローマ本社に日本人社長が勤務している。
私が着任した田舎町は細々と2輪車の現地生産を行っているが現地生産車は毎年赤字を計上し、収益の柱は日本で製造している2輪車の輸入販売事業だ。当時、日本製の大型2輪車はイタリアでたいへん人気があり、欧州ブランドより高値で販売しても市場に受け入れられていた

わたしにとっては初めての海外駐在であり、しかもイタリア語も全く話せないなか、着任後しばらくはこの現地法人の仕事の内容もよく理解できない状態が続いていた。
しかも、3か月後には家族も渡航してきて、赴任後のさまざまな手続きから始まり、生活用品の買い物から子供の学校のことなど公私ともに初めての経験に戸惑い、多くの時間を費やさざるを得なかった。

ローマに在席する社長は、そんな私に毎日電話をかけてきて、矢継ぎ早に仕事の指示をしてきた。
プライベートと仕事の渦のなか、アタマのなかで優先順位をつけることも難しく、毎日がカオスだった。

公私ともに限界に近い生活を続けていたなか、赴任して半年ほどがたった92年の秋ごろから円高の傾向が見え始めた。とくに弱小通貨であるイタリアリラ(当時はまだ共通通貨「ユーロ」は導入されていなかった)は一挙に価値が下がっていった。

円高が始まる前は1円が10リラ程度だったものが、93年になるとなんと1円が15リラへと約50%もイタリアリラの価値が下がった

日本から輸入してイタリアで販売する2輪車は会社にとってはドル箱商品だったものが、円高リラ安によって50%も輸入コストが上昇してしまうと
いっきに大赤字商品となってしまう。

わたしは経理の立場で、年間利益見通しを計算する。どう見てもこのままの為替が続くと会社は大赤字。2、3年後には資本を食いつぶして会社は倒産の危機。
この試算結果を社長に報告すると、社長は顔を引きつらせた。
そして私に詰問した。
「この状況をどうするつもりだ! お前、この会社をつぶす気じゃないだろうな!」
わたしは、ココロの中でつぶやいた。
それを考えるのはアンタの仕事だろ。」
しかし、超パワハラ系の社長に向かってとても口に出せるはずもない

2、3日して社長からの電話が鳴った。
現地法人の責任者として、何か対策を講じなければならないと考えたのだろう。

「おい、良い案を思いついたぞ。株をやろう。今、イタリアの株は上昇機運に乗っている。絶対儲かるぞ。株で儲けて、利益を出すんだ。わかったな。オレの命令だ

社長ともあろう人物が、目の前の大赤字、倒産の危機を感じると、冷静に判断できなくなるのだなあと、私は不思議なくらい落ち着いて受け止めた。

「社長、ちょっと待ってください。絶対もうかるとは限らないでしょう。損したらどうするんですか。そもそもうちの会社は『実業以外には手を出すな』という創業以来の戒めがあります。私は本社財務部勤務時代に、上司から口酸っぱくたたき込まれました」

「おい、お前! いつまで日本の本社のほうを向いて仕事しているんだ!だからお前はダメなんだ。今、お前はイタリアのこの会社のために何をすべきか考えていればいいんだ」

「・・・・・」
これ以上、何を言っても火に油を注ぐだけだと、私は黙り込んだ。

2日後にまた電話がかかってきた。
「おい、株買ったか? 早くしろ!オレの命令が聞けないのか!」

このまま黙っていては、私は優柔不断で何も行動に移すことができない人間だ。この会社での自分の存在意義も消えていってしまう。
私は意を決して、きっぱりと伝えた。
「社長、社長の命令だとしても私は株には手を出しません。もしどうしても株をおやりになるということであれば、私を帰国させてだれか他の日本人で社長の指示通り株の売買をやる人に交替してください」

超パワハラ系の社長から、なぜかそれ以上罵声は無かった。
そして、それ以来、株の話は一切しなくなった。
その後、幸い日本の本社から現地法人に対する救済策が提案され、倒産の危機は免れることになった。

社長は本当に株の売買をしようとしていたのか。もしかすると、単にまだ若くて経験も少ない私を試していたのかもしれない、と後になって想像した。

海外の現地法人で会社の財布を預かる重要なポジションを全うするには、ときには社長の命令に背くぐらいの信念を持つ必要がある、ということを暗に教えようとしていたのかもしれない。
意を決した私の発言に、社長はコイツなら財布の管理を任せられると安心したのかもしれない。

企業から派遣された海外駐在員が任期を全うできずに早期帰国させられるということは、「ダメ出し」されたことを意味し、その後もその人はその烙印を背負い続けることになる
ダメ出しのリスクを承知の上で、言うべきことは言わなければいけない。

これは経理財務の世界の話だけではない。営業部門にしろ、製造部門にしろ、総務・人事、IT、それぞれの自分の担当領域に対して、信念をもって人を説得し、判断する強さが求められる。
そのうえ、拠点の中で部門に日本人駐在員はひとりというケースがほとんどで、相談する仲間も限られている。孤独に判断しなければいけない。

当時は自分の中でぼんやりとしていたが、今になってはっきりと見えてきたことがある。
上司の言うがままに行動することが必ずしも正しい道ではない。自分の信じる道を歩むことが大切なのだ。


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