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日本人は、「謝ること」に慣れすぎているのかも

会議の開始時間に1分遅れた若手社員が、「すいません、お待たせしてしまって」と申し訳なさそうに会議室に入ってくる。

混雑のため電車の到着が1分遅れるという駅構内のアナウンス。「お急ぎのところ申し訳ありません。ただいま1分遅れて電車が到着いたします。」

上司から、「お前が作る資料はいつもわかりづらい。もう少しちゃんと考えろ!今年の勤務評価に影響するぞ!」 こんなあいまいで納得のいかない指導に対しても、部下は「は、はい、申し訳ありません(汗)。すぐ作り直します。」

会社の不祥事が発覚し、記者会見を開く。原因究明がまだなされていなくても、とにかくカメラの前で深々と頭を下げて謝罪する会社のトップ

とにかくいつでもどこでもよく謝る日本人。

ところが、一歩日本を離れて海外へ出るとまったく異なる世界が広がっています。

私がドイツの現地法人の社長を務めていたときのことです。
このドイツ人の反応には度肝を抜かれました
ドキュメンタリー番組風にお送りします。

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営業部長のアレックスは、仕事熱心で計画通り精力的に業務をこなし、会社の業績向上に貢献する優秀なシニアマネジャーのひとりであった。
彼は、2月の中旬に2週間の有給休暇を取り、家族とスキー旅行へ出かけた。ところがスキーの最中に転倒してあばら骨を骨折してしまった。
彼は営業部の直属の部下には骨折した旨を連絡はしたが、直属の上司である社長の私には報告は無かった。しかし、営業部のスタッフから間接的に私の耳に入ることになった。
2週間の休暇が明けても彼は出社してこず、結局それから1週間経って出社してきた。休暇中、アレックスは電話やメールで部下に指示を出し続け、取引先ともオンライン会議などを通じて必要な協議や交渉は行っていた。出社後に私は何度かアレックスと業務上の話をすることがあったが、骨折の事実を私に報告することもなく、また一切謝ることもなかった。

私はアレックスが全く謝ることがなかったことに対して不愉快だったし、不誠実だと感じて徐々に不満を募らせていき、3月末の定期面談時に問いただした。「先月、君は骨折して1週間出社しなかった。それを私に報告もしなかったし、謝りもしなかった。なぜ、謝らなかったんだ」と、不満と怒りを視線に込めて詰問した。

アレックスはぽかんと口を開け、私の言っていることが理解できない様子。私の顔を見ながら、「何に対して謝る必要があるのですか?私が何か会社や社長に迷惑をかけるような過失を犯しましたか?」と、逆に質問してきた。私は全く想定していなかった反論に明確な返事ができず、すごすごとその話題を取り下げるしかなかった。

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アレックスは管理職で時間管理されないポジションであり、しかも営業部長という職務なので、日ごろからオフィスでの執務よりも取引先を訪問する機会が多かった。オフィスに出社するかしないかは彼の裁量に任されていました。

私は自問した。「彼が何に対して私に謝ることを、私は期待していたのだろうか」。

彼の骨折、1週間オフィスへ出社しなかったこと、これらは特に会社に被害をもたらしてはいない。またこの1週間の間に私との会議を予定していたわけでもないので、私も迷惑を被ってはいない。

冷静に突き詰めてみると、私はただ単に、私に何も報告しなかったことが不満だったのです。

しかし、骨折も在宅勤務も上司への報告義務ではないので、彼は報告する必要がなかったわけです。
とても論理的であり、感情論から切り離した対応です。

つまり、私に謝る理由は何もなかったわけで、「なぜ謝らないんだ?」と問われて、彼は理解に苦しんだのです。


日本人が他人に謝る理由はいろいろあるのでしょうが、第一義的には「相手の怒りを鎮める」ことにあります。相手に被害を与えたなど謝る理由があるかないかよりも、相手が不愉快に感じているか、ムカついているかどうかが謝りの理由になっています。
つまり、謝ることが人間関係の潤滑剤になっています。

この日本人的な「謝り」は、長年の人間関係のなかで築きあげられた慣習であり、否定などしても何の意味もありませんが、外国人には通用しないことは理解しておくべきでしょう。

海外現地法人に駐在して、外国人の部下を持つ場合には、潤滑剤としての「謝り」を期待すると不要なストレスを感じることになってしまいます。

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