見出し画像

欧米で進む深刻な「キャンセルカルチャー」、その内実を分析

最近生活していて、Youtubeに流れている動画でよく見る「キャンセルカルチャー」、日本でも結構話題になることはあるものの、それについて触れているケースは少なかったりします。

巷で噂のキャンセルカルチャーとはいったい何なのかを改めて深堀していきたいと思います。


言っても無駄、いても無駄?

キャンセルカルチャーを定義付けるものとして最初に考え付くのが「あきらめ」です。商品に対して絶望や失望感を受けた人がその商品を買わないなどの不買運動やコールアウトカルチャーなどの批判によって、対象を「キャンセル」します。

個人的な話なのでここで追記しますが、これはいわゆる企業内における新卒が「居ても無駄だし、上司に何を言っても無駄だ」と感じてやめてしまう、という現象に近い気がします。その企業内に居ても自分で帰られることは限られており、圧倒的に力関係に差がある場合、仕事自体をキャンセルをすることで意思表示するというのが共通しています。

長期的な言い争いと刹那的なキャンセル(シカト行為)

キャンセルカルチャーは現代社会において特徴つけるような行為として認知されているだけではなく、あらゆる箇所で問題行為だと位置づけられてきています。

日本でもこのキャンセルカルチャーという謎の文化は浸透しつつあり、最も有名なのが「有名人の炎上」です。なぜこの炎上騒動がキャンセルと関係あるのか?と思われる方もいるかもしれませんが、基本的にキャンセル=こき下ろしと同じような意味合いがあり、気に入らないセレブや著名人をたたくというのは2010年代のアメリカではやりだしたといわれ、のちに日本にも伝来したというわけです。

キャンセルカルチャーを主にドライブしている原動力になっているのが「Twitter」などのSNSですが、SNSの特徴としては長期的というよりかは短期的、刹那的に事が進むことが挙げられます。その進行具合に沿うように、キャンセルカルチャーには「突然」「見通しがない」「一方的」のような印象が付きまとっています。

内容を理解していないという問題

突如、向こうから一方的に拒否されたり石を投げられたりすることは、するほうに関しては一種の嫌悪感からしているものだと解釈できますが、やられているほうからしたら、ひとたまりもないダメージを受けている可能性も否定できません。キャンセルカルチャーの問題点の一つとして「キャンセルする側が内容を理解していない」ことが挙げられます。

これはいわゆる野次馬的行為に当てはまります。キャンセルカルチャーは盛り上がれば「私も、僕も同じ考えを持っている、だからキャンセルすることには同意だ」みたいなサイレントマジョリティを動かす「刹那的文化」としても駆動します。だからこそキャンセル「カルチャー」といわれるのかもしれません。

・見たくないものは見ない

流れで参加した社会中の共感狂戦士はどこまでことを理解しているのか理解していないのか、それを判断するすべがないというのが厄介なところでもあります。もちろん、キャンセルしている時点で、何かしらの問題があったのかもしれませんが、それが本当かどうか、具体的にどういったところに不満があったのかという詳細まではキャンセルの動機には必要ありません。

自分の自由意思が最も尊重されることが多いキャンセルカルチャーにおいて、明確な線引きはないようなものです。

・見たくないものの内容を知らない

もう一つに、キャンセルしたは良いものの、その内容を見たくないがゆえにあえて参加するというケースも考えられます。つまりは、見たくないものをあえて見ないでキャンセルに参加するということです。

キャンセルカルチャーはこうした行為を一企業だけでなく、個人に向いて発動することもあり、その勢いはとんでもないことから著名人や論客からも毛嫌いされいることは容易に想像できます。実際、以下のような人物が欧米ではキャンセルされており、その破壊力は彼らの社会的地位を一気に下落させるだけではなく、最終的には「社会的抹消」「社会的な死」に至ります。

「議論ができない」とは?

キャンセルカルチャーは批判することを指しますが、その行為自体が批判されることは多くありません。なぜなら、人の不幸は蜜の味ともいうべきか、一般的にキャンセルする側は弱者サイドである場合が多いからです。

・自分の主張がない

弱者サイド、とは揶揄的に言いましたが、いわゆるキャンセル自体は非常に簡単で商品を買わない、ある人物を酷評するなど、ボタンを押すだけレベルの行動で出来てしまう社会運動といえます。だからこそ、あまり深い内実を必要とせずその運動に参加できるうえに、見返りに人の不幸という甘い蜜を共有することができるのです。

こういった背景からか、現代の魔女狩りとか、Wokeといった揶揄的表現が出て「彼らとは異なる」という線引きを毎かいしたりしますが、結局新しい磁極が生まれるかの如く、キャンセルカルチャーは何度でも、どこかで生まれてしまいます。

・相手の欲望が理解できない

キャンセルカルチャーの問題点としては相手の欲望が理解できないこともあるかもしれません。キャンセルという行動自体が一種の「宣戦布告」でもあり「奇襲作戦」ともいえるからです。ある程度相手側の思想や欲求が飲めていれば回避できたキャンセルもいくつかはあるでしょうが、相手側の欲望が分からない、もしくは見ないようにしている場合キャンセルはよりやりやすくなります。

理解しなければ自由とは言えない

キャンセルカルチャーの問題点は様々挙げられますが、それが確かな理由として考えられなければならないという点と、仮にキャンセルする理由が正当だとしても、対象に深刻なダメージが入るということです。キャンセルされる側は確かに何かしらの落ち度があるのかもしれませんが、されたらされたで社会復帰が不可能なほどにぼこぼこにされるというのはいかがなものか?という意見も多く見受けられます。

・エモさとかいう鳥かご文化

キャンセルカルチャーの問題は「理解していないけど楽しそうだから参加してしまう」という性にあるとは言いましたが、これはいわゆるエモいという日本語からも説明することができます。エモい、とは一般的にはEmotionalから感情的な、みたいなニュアンスを含んでいますが、実際には「よくわからないけどGood」みたいな広義の意味合いとして使われていたりもします。

ここでいう「よくわからなさ」というのは「それが詳細に理解できていないからこそ良い」ということでもあり、わからないことそれ自体がストレスになっていないという査証でもあるように思います。もしも、キャンセルするとなったときにその詳細を理解したうえでキャンセルしているとしたら、芸能人や著名人が社会的に死ぬほどたたかれまくることはないのではないか?とも思えるのです。

こういったことから、エモい、という言葉はそのニュアンスを濁して使われる場合もあるうえに、意味合い自体が「本質を避けたうえでの感傷」を指しているようにも聞こえます。

・実際問題、自由って何なのか

ここまで継続してキャンセルカルチャーを痛烈批判してきましたが、それはキャンセルカルチャ-そのものを批判したというわけではありません。キャンセルするということはそれなりの理由があり、それによって解決できることもあるから「キャンセル」という手段を選んだという側面もあるからです。

喧嘩をしてらちが明かなくなったら議論するよりも無視したり、相手に再起不能の一撃を加えたくなるのは考えてしまいがちなことではあります。しかし、それはあくまでも通過地点の一喜劇であり、最終到達目標は別にあることがほとんどです。それは大体の場合自由だとは思いますが、過度なキャンセルカルチャーとその問題を考えると、今一度自由が何なのか?キャンセルすることの本当の目的とその利得についていろいろと考察するべき時が来ているのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?