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虎になった李徴はきっとツイ廃に憧れている

ツイ廃、つまりTwitter(現X)に依存している人たちに、自分は憧れている。

自分もXをほそぼそとやっているが、全然呟けない。140文字くらいってすごく微妙なバランスだなと思う。

面白いなと思ったことがあれば、1,000文字くらい語りたいし、そこまで面白くないと思ったことは、自分の中で寝かせてしまう。面白くないことをアウトプットする自分が許せないのだ。


でも、この思想って間違っていると思う。だって、インターネットは自由な場。もちろん他人を傷付けるような言動だったり、犯罪はいけないけども、それさえ守ればなにをしてもいい場所だと思っている。だって、便所の落書きなのだから。

そうした古の2ちゃんねらー(これも死語か)の思想の一部を受け継いてでいる自分からすると、自分の発信内容を制限するのなんて、言語道断。

でも、自分はツイ廃になれない。つぶやけない。日常の細かな気づきや思いを、アウトプットまで昇華できない。それが140文字にならなくても、801(やまなしおちなし)な話になろうとも良いはずなのに。

だから、こうして文字数制限のないnoteで、なんとかこねくり回して、この文章に意味を持たせようとしているのだ。オチをつけようとしている。一体自分のことばにどれだけ過剰な期待をしているのだろうか。


李徴もきっとツイ廃に憧れたと思う

だからこそ、ツイ廃の人は幸せだろうし、彼らに憧れる。決してバカにしているわけではなく。世の中に名を残し、多くの人に影響を与えるのは、どんな内容だろうとアウトプットする人であり、それを実践し続けている人なのだ。それを妨げるのは、人生にとって害でしかない。

こんな心境をあらわした名文がある。現代文の教科書に必ず掲載されている中島敦の『山月記』である。自分はこの文章が教科書の中で1番好きかもしれない。

人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。
勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己をれは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。

『山月記』より

すごく共感できるのだ。見栄えを気にして、なにも発信できない自分。周囲がどう言おうとも、自分にだけは分かる。今の地位は、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である」ということが。


だから、きっと現代に蘇った李徴は、ツイ廃に憧れているだろう。世に交わることをよしとせず、自分の世界に閉じこもり、狭い世界で生きた李徴は、無邪気に世界に飛び出し、様々な意見を交わりながら、自己の表現に生きるツイ廃に憧れているのだろう。

・・・酔っ払って記事を書くものではなかった。
自分は酔うとすぐに『山月記』の話をしたがる悪い癖がある。Twitterをもっと気軽に使いたいね、みたいな記事を書こうと思っていたのに。

まぁ、これも自分らしい記事だから良しとするか。
こうしてnoteを書き、世に発信できるインターネット環境のおかげで、自分は猛虎にならずにすんでいる。最後に美しい山月記の最後でしめよう。

一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

『山月記』より

タイトルイラストは丸月 -Marudzuki-さんから。


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