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「ちょっと頑張る」ことが必要だ

noteを書くモチベーションを上げようと、色々と本を読んだり、ウェブを漁ったりしていた。いや、正確に言うと、「楽に」書けるようになる方法はないかと探していた。

書きたいことはいっぱいあるが、それを言語化するのにどうしても腰が重くなってしまう。書き始めると、それはそれで執筆作業に1時間くらいはかかってしまうし。何とか気軽に書けるような術はないかと探し回っていた。

そんな中で、糸井重里さんと古賀史健さんとの対談記事を読んだ。

『さみしい夜にはペンを持て』という本についての対談なのだが、本の内容が「書くこと」に関するものなので、対談の内容も、「書くはどういうことか」みたいな内容になっている。
そして、怠惰に文章を書けないかと思っていた自分には刺さりまくりな内容だった。


まず、対談の最初の方。こんな会話がある。

糸井
メモがあったほうがいいって気づいたのは、30歳を過ぎてからだと思うんですよね。20代までのぼくは、「書かなきゃ忘れちゃうようなことって、大したことじゃないんだから」なんて言ってたもん。きっと古賀さんもそうなんじゃない?

古賀
はい、昔はそう思ってました。

糸井
若い頃ってみんな、生意気だよねぇーっ!

古賀
生意気です、本当に。

グサリと刺さった。全く同じことを思ってたからだ。というよりこれを書かないことの言い訳にしていた。「書きたいと強く思わないってことは、そんなに大事なことではない」といって、その日に筆を取らないことの言い訳にしていた。

もちろん、メモはしている。しかし、その日の熱量だったり、思いは、書きたいなと思い立った時が最高峰なのは間違いない。

そもそも「大したことじゃない」ものを面白く書くことが書き手の実力だと思っているのだから、こんな言い訳は矛盾しているのだ。「凄いネタが思いつくまで温めておこう」という発想では一生変わらない。ガッツに叱られてしまう。

『ベルセルク』より



糸井重里は、今自社のサイトで「今日のダーリン」という形で毎日文章を書いている。長すぎず、短すぎず、丁度良い文量で素敵なエッセイを毎日更新している。やっぱり文字を書くことのプロってすごいなと思わせるような内容。

そんな彼の毎日更新の話について。下記のように語っている。

古賀
毎日書くようになってから書く目で世の中を見ているというか、人の話を聞くようになったとか、糸井さんも変わっていったんじゃないかと思うんですけど、どうですか?

糸井
うん、そうだと思います。みんなが認めるような知性とは違うだろうけど、ぼく自身にとっての知性はそこで、足し算で増えていったものだという気がします。掛け算みたいに増えるんじゃないんですよ。掛け算で一気に増えた覚えは1回もなくて、本当に足し算のような気がするんですよね。

まぁよく言われていることだが、本を読んだり、モノを書くようになったからといって、いきなり教養が高くなるわけではないのだ。森博嗣も言っていたけど、「教養」とは「養う」ものだから。
これも変な焦りを感じてしまっている自分には刺さった。


そして、トドメだったのが、下記の会話。

古賀
ぼくは糸井さんと最初にお会いしたとき、「今日のダーリンってなんで毎日続くんですか?」という質問をしたんです。
そうしたら糸井さんが、「ちょっと頑張ればいいんです」とおっしゃって。ほんのちょっと頑張る時間を1日のどこかに設ければそれで書ける、頑張っている量はほんのちょっとだけだから、というふうな言い方をされていました。

糸井
うん、当たってます。

当然のことだ。何かをアウトプットするのに、なんの努力もせずに魔法みたいに勝手に作られるわけがない。なのに、勝手に糸井重里みたいな天才は楽して書けるのだと思い込んでいた。
日常のあらゆるものがエッセイのネタになっていて、それをパッと文章にしてやるだけなのだろうと。思い違いも甚だしい。

糸井重里みたいな天才で、凄まじいキャリアを持っているコピーライターでも、毎日少しだけ「頑張って」書いているのだ。何者でもない自分が楽して書ける訳がない。

追加で、対談している古賀さんも、毎日1時間はかけてnoteを更新していると言っていた。これもグサリ。プロの作家でも時間がかかるんだから、自分が一瞬で記事を書けるわけがない。


そんな当たり前のことを再認識し、「頑張ろう」と思った。努力は避けられぬモノだと再認識した。変に「書いてみよう」系の本を漁るのも辞めよう。モチベが下がった時に読んでみるのはいいと思うけども、今は必要ない。

思えば、こうした日記系をまとめるマガジンに、糸井重里に憧れて「ほぼ日note」と名付けていた。ほぼ日どころか、ほぼ週になっている現状を反省して更新頻度を上げたい。
以上!

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