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「泉こなた」という初恋のキャラ

『らき☆すた』が連載20周年ということで、ニコ生で全話一挙放送が行われていた。Youtubeじゃなく、この時代に「ニコ生」で放送してるのが風情を感じる。

間違いなく自分の「青春の作品」というやつだ。中学生のころは、ニコニコ動画にあふれていた『らき☆すた』のMADを見漁っていた。毎日タグ検索して、「投稿日が新しい順」にソートしていたりしたのが懐かしい。自分の中での「日常系アニメ」の原点にして頂点に鎮座していると言ってもいいだろう。

そして、初めてハマった「日常系アニメ」であると同時に、初めて明確に「美少女キャラのことを好きになった」作品だったような気がする。中学生だった時には恥ずかしくて言えなかったが、今なら言える。
「泉こなたが初恋でした」と。


別にそれまでハルヒしかり、ラノベの有名どころは大体触れていた。好きになった作品もあった。でも、作品自体を「面白い」と思ったことがあっても、特定の美少女キャラを「好き」になることはなかった。

この画像、携帯(当時はガラケー)の待ち受けにしていたような記憶すらある。超うっすらだけど。

清々しいまでのキモオタだ

中学生の時は、深いオタク友達がいなかったのもあり、一人で悶々と泉こなたへの思いを募らせていたのを思い出した。その後に東方にハマったり、色んな二次元キャラのことを好きになったけども、最初は間違いなくここ。

でも、当時の自分に「こなたのこと好きなの?」みたいな質問しても、
「いや、萌えてはいるけど、別に好きじゃねーから!」みたいな意味不明なことを返答してきそうだ。うん、そういったところも含めて完全に恋する中学生だったと思う。


中学生の当時は、泉こなたというキャラの何が魅力的だったのか、言語化はできなかった。ぼんやりと「同じオタクだから好きなのかな…?」
としか考えていなかった。10年以上の時を経て、彼女の魅力を言語化してみようと思う。大人になった今なら、彼女の魅力を語れるはずだ。


ロリコンじゃないけど癖でした

まず、最初に言っておくと自分はロリコンではない。
こうした俗に言う「ロリキャラ」を好きになることはほとんどない。こなたも、ビジュアルで惚れ込んだわけではない。

と書いている途中で気づいた。確かに泉こなたのロリ要素は別に好きじゃない。でも、その他の要素はかなり自分の今の「癖」に結びついていることに。

それは何かというと、「アホ毛」と「泣きぼくろ」だ。アホ毛は悲しいかな、最近のアニメでは全く見られなくなった絶滅危惧種。だが、泣きぼくろは直近の作品でもキャラについてると、「お!」と思う。ブルアカで自分の好きなキャラに泣きぼくろがついており、それをnoteで長文で語ったりしているくらいには。「雀百まで踊り忘れず」というが、源流はもしかしたらここなのかもしれない…


オタクとしての憧れ

ロリという要素以外で、こなたのキャラを一言であらわすなら「オタクキャラ」だろう。この属性に自分は大きく惹かれたのだろうか?
確かに、それまでの作品で二次元キャラが大好きな「オタク」なキャラといえば、男性だったのを女子高生にさせるという、新しさはあった。

でも、そういう要素を持つキャラが自分の好みだとしたら、その後に触れる作品に出てくるそういう「オタク女子キャラ」は全員好きになるはず。しかし、そうはなっていない。

だが、無関係でもないとも思う。振り返ると、泉こなたに対する感情を占める部分に「オタクとしての憧れ」という要素はかなり強かった気がする。


らき☆すたにハマったのは、中学前半くらいの時期。
この年齢では、オタクコンテンツに関する知識も薄かったし、当然お金も持っていなかった。オタクとして語り合える友達もほとんどいなかった。そして、彼女はそんな自分の真逆の存在だった。

エロゲという大人しかできないゲームをプレイし、ありとあらゆるオタクコンテンツに造詣が深く、自分でバイトをしてお金を貯めて自分の趣味に好きに使う。オンラインにはネット友達がいて、しっかりと現実にも友達がいる。何ならその友達を自分の領域に連れ込んだり。

きっと、自分に持っていないものを何もかも持っているこなたに、一人のオタクとしての理想像を抱いていたんだろう。ビビってなかなか足を踏み出せなかったコミケも、彼女は当然のように参加していく。自分のコミケへの憧れの原体験も、ここにあるような気もする。

もし大人になった今の状況で、記憶を消して初見でこなたをみても、「かわいい」と思うことはあっても、好きにまでは行かないかもしれない。大人になった今では感じられない、当時ならではの感情も彼女に対してあったと思う。


生き方に憧れる

そして、大人になって見返して思う。彼女の生き方に憧れるなと。漠然と当時の自分も感じていたと思う。

完全なオタクキャラなのに、思いの外ハイスペックなのが泉こなた。スポーツもできるし、一夜漬けでテストを高得点取ることから、頭も多分良い。料理もできて、家事炊事もできちゃう。リアルでもオンラインでも友人がいてコミュ力も低くない。

そんな彼女だが、その能力のすべてを自分のオタク趣味のために使っている。その能力を活かせば、もっと人から評価される生き方もできるだろうに。

生き方に自分の人生を楽しむという軸がしっかりとあり、そこに他者の評価は関係ないのだ。


そういった意味で、ドライな性格とも言える。かがみやつかさと仲が深まっていく前の作中序盤では、割とクールな性格だった。中学時代の仲が良い子も、「魔法使いになりたい」と言っていたオタクの一人だけだったと言っていたし、その子と連絡を取り合っている様子はない。

コミックス1巻より

帰宅部だし、積極的に交友の和を広げようともしていなかった。初期のこなたには、自分の世界さえ安寧だったら社会的な状況なんか関係ない、そんなクールさがあった。きっと、ボッチな状況になっても平気な顔をしていたと思う。ある意味、「らき☆すた」は、そんなこなたが丸くなって、少しずつ「友達」と仲良くなっていく話とも言える。


少々脱線するが、それを象徴する第15話「いきなりは変われない」を語らせてほしい。

大好きな話だ。すごく印象に残っている。声優のライブシーンでかがみから席を譲ってもらったときのあの表情。

帰り道でのこなたの沈黙。「なんだろうね、この気持ち…」というこなたのつぶやきと、「いきなりは変われない」というタイトルが挿入されるシーン。

このこなたの気持ちは何なのか、「変われない」のは何なのか、様々な解釈ができる。正解はない。自分は、「友達の大切さ」というのを初めて自覚したシーンだと思いたい。大好きな声優のライブに、友達がいたから当選できて、友達がいたからしっかりと見ることができた。ライブという非日常で、彼女の人生で今まで大事なものとしてなかったものが、日常に存在する友達の大切さが、初めてで実感できた。だから、彼女は驚きと共に戸惑う。自分の生き方を「いきなり」は変えられないから。そんなシーンだと自分は解釈したい。

当時の百合好きからは、こなたのかがみへの愛の芽生え、なんて過激な解釈もあったが(笑)。らき☆すた屈指の名シーンと言える。自分も、中学生らしく「友達って何なんだ。必要なのか?」みたいな拗ねてた時代だったのもあり、このシーンはすごく印象に残っていたのだろう。


話は戻り。そんな少し浮世離れしたところもあるこなたの生き方に自分は惹かれる。

思えば、ここにも自分の癖の祖があるかもしれない。基本ハイスペックな人間が、全てをドブに捨てて、何かに熱中しているようなヒロインが好きなのだ。不器用な自分と比較したときのコンプレックスと、憧れに押しつぶされる。思えば、好きになってきたキャラはみんなそうだった。


きっと彼女は人生を楽しんでいる

数年前にTwitterで「泉こなた(32)」みたいな文字面がトレンド入りした。実年齢に換算したその数値のギャップに、みんな様々な思いを抱いていた。

自分は、大人になったこなたを想像した時に、何も心配はしない。きっと彼女はどんな年齢、環境になっても、自分の人生を楽しんでいるだろう。何にハマっているのか分からないが、変わらず自分の「好きなこと」を見つけて、そのために現実世界といい感じの折り合いを上手く見つけて、人生を謳歌していると思う。

そんな要領の良さと、社会でなく、自分の心に素直に生きる彼女のことが、自分は好きだったのだ。


なんというか、ここまで書いておいてだが、「好き」は、必ずしも異性としての「好き」ではないかもしれない。もし、こなたと友達でも、心底楽しそうな人生を歩める気がする。性欲から来る好意よりも、人間としての「好き」が上回っているかもしれない。

多分、彼女と同級生になり、奇跡的に仲良くなれたとしても、「友達」ですらなくなるのが怖くて、一歩前に踏み出すことはできなかっただろうなぁ…
ずっと憧れの眼差しで見て終わる気がする。


以上、10年以上前の自分の「好き」を分析してみた結果、4,000文字近い長文が生まれてしまった。素直にキモい。が、書いていてかなり面白かった。やはり多感な中高生時代の体験ってすごく重要だなと思う。未だに振り返っても泉こなたに対する気持ちは中々に複雑で、まだ言語化できていない部分もある。今風に言うと「エモい」ものがあった。

改めて『らき☆すた』連載20周年おめでとうございます。こなた始め、素敵なキャラたちを生み出してくれてありがとう。この記事では触れてないけども、かがみをはじめ、らき☆すたのキャラは全員好き。


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