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おばあちゃんと、仏様と、デジタル

デジテック運営事務局のやまたんです。

事務局にお世話になって約2年。デザイン思考をはじめ、山口県のデジタル化を進める仕事に携わってきました。

そこで特に感じたのは、デジタル社会を実現するためには、デジタルの活用を重視するだけでなく、生活や社会をより快適で豊かなものにするためには何が必要なのかという、目指すべき姿、ビジョンを、皆で共有することが最も大切だということです。

そのビジョンはどうあるべきか、Well-beingや人間中心設計といった考え方を学ぶ中で、幼少期の幾つかの体験が、私の理解を助けてくれた気がしています。

特に心の土台となったのが、次の2つのエピソードです。


おばあちゃんと五円玉

私の実家は、小さな商店を営んでいました。

祖母が始めた店で、小学校の通学路が店前を通り、近くにお寺もあったので、青果や日用雑貨、お菓子や生花など、色々な商品を売っていました。

両親や祖父母、親戚のおばちゃんなど家族ぐるみで切り盛りし、スーパーマーケットやコンビニエンスストアがまだ少ない時代、店内では近所の人達がよく世間話をしていました。

私が小学生になる頃でも、商品の仕入れ係は祖母で、市内の卸売市場まで、祖父の運転するワゴンカーで毎朝出かけていました。

仕入れ時間は、朝3時。早く行かないと、安くて良い品は売れてしまうらしいのです。

早朝というより真夜中の市場がどんな所か興味が湧き、夏休みのある日、小学校低学年だった私は、一緒に仕入れに行きたいと祖父母に頼みました。

両親は困り顔でしたが、祖母は「途中で眠くならんように、今日は早く寝るんよ。」という条件だけで、すんなり翌日連れて行ってくれました。

 置いて行かれないように、30分刻みで目を覚ましながら朝3時を迎えた私は、朝ごはんも食べずに祖父母と一緒にワゴンカーで市場に向かいました。

早朝の道路を走る車は他になく、辺りの暗さも手伝って、知らない町にいる心地でした。

20分ほどで市場に着き、エンジンを切った瞬間に、賑やかな声が聞こえてきました。

市場には100人以上の人が集まって、裸電球のオレンジ色の光に照らされながら、忙しそうに荷物の積み下ろしや、仕入れの交渉を行っています。

通路の両脇に野菜やお菓子などが箱積みされて、まるで祭りの夜店のような光景でした。

祖父母のそばを歩きながら、興味津々で右に左に店をのぞき込んでいると、ある店のおじちゃんが、小さなロボットのプラモデルを、私の前に差し出してきました。

「僕。こんな朝早くから仕入れの手伝いか、偉いのぉ。これ、ご褒美。」

祖母が遠慮しても、おじちゃんは「いいから。気にせんで。」と笑いながら言います。

最後は「ありがとうございました!」と私が大きな声でお礼を言って、プラモデルは正式に早起きのご褒美になりました。

その後、学校で「早起きは三文の得」ということわざを習った時には、よく知っていますと頷いたものです。

祖母が最初に仕入れに行った店には、おばちゃんが一人で店頭に立っていました。

祖母は店内を手早く見て回ると、持ってきた袋に目ぼしいものを入れて、「他の店を見て来るから、今日もちょっと置かせといてね。」とおばちゃんに袋を預けて、店を出ました。

そう、仕入れは安くて良いものを早い者勝ちで手に入れる競争なのです。

次は、さっきよりかなり大きい店に寄って、野菜などを段ボールごと買っていきました。あっという間に、段ボール5~6箱の量に。ワゴンカーに載せるには、精一杯です。

それではお会計と、お店の人が計算している横で、祖母は「〇〇〇〇円やと思うんじゃけど」と言いながら財布を空けています。そして計算が終わると、祖母の言ったとおりの金額でした。

私が驚いていると、店のおじちゃんが「僕。ばあちゃんが計算得意なの、知らんかったんか。いつも、値札見ながらパッパと買って、勘定はピシャッと頭の中で計算しとるんよ。本当、たまげるいぃね。」と笑いながら教えてくれました。

祖母は「慣れたら誰でもできるいぃね。」と言いながら、支払いをして、「お釣りの十円やけど、五円玉2枚で貰えるかね?」とお願いしています。

僕のおばあちゃんは、凄いんだ。
祖母の横で、ひとり得意顔になっていました。

買った荷物を祖父がワゴンカーに運んでいる間に、祖母と私は、最初のお店に取り置きしてもらっていた品を取りに行きました。

店のおばちゃんが袋を店の奥から持ってくると、祖母は「〇〇〇円やと思うんじゃけど。」と言いながら、財布を空けました。

おばちゃんはあらかじめ計算していたようで、「そう。〇〇〇円です。」と答えました。

また正解だ!と喜ぶ私を見て微笑みながら、祖母は「はい。これで丁度と思うんじゃけど。」と小銭をおばさんに渡しました。

さっきお釣りで貰った、五円玉を含めて。

おばちゃんは「確かに。いつも丁度で払ってもらって、助かります。」とお辞儀をしながら言いました。

祖母が五円玉を2枚貰った理由が分かりました。

最初の店のおばちゃんも、次の店のおじちゃんも、きっと知らない理由。

僕のおばあちゃんは、凄いんだ。
さっきよりも、ずっと嬉しくなりました。

それができん者がおる

実家の近くのお寺に、子ども好きの住職さんがいました。

近所の人達からは「ごいんげさん」と呼ばれていました。

このお寺は、近所の子ども達にとって、お寺の中の空き地で野球をしたり、除夜の鐘を突きに行ったりと、日頃から馴染みのある場所でした。

今思えば、檀家が減る中で、地域の子ども達に少しでも教えを広めようというごいんげさんの考えだったのでしょう。年に数回、子ども達がお寺に集まる行事も開かれていました。

それらの行事で一番好きだったのが、お釈迦様の誕生日を祝う「花祭り」。

振る舞われる甘茶の、後からすっと口に広がる甘味の虜となっていた私は、4月になると毎年せっせと花祭りに参加していました。

花祭りでは、ごいんげさんから花祭りにまつわる歌を子ども達が習い、一緒に歌った後、甘茶とお菓子をいただきながら、ごいんげさんのお説教を聞くという流れでした。

ある年、お寺の本堂でお菓子を食べている私達へのお説教の最後に、ごいんげさんが言いました。

「今日、みんなが歌った歌は、念仏を唱えるのと同じ意味があるものじゃ。仏様が見守ってくださるから、安心して暮らしなさいよ。」

その言葉を聞いて、子どもの一人が尋ねました。

「念仏って、手を合わせて唱えないと、いけんのじゃないの?」

ごいんげさんは、「そういう風に思うよなぁ。」と言いました。

「じゃけど、もし明日お前さんが怪我をして、手の骨を折ったりでもしたら、手を合わせたくても合わせられん。痛くて、無理じゃろう?」

「そりゃあ、無理じゃ。ギブスをしとるかもしれんし。」

「そうじゃろう。決まりとはそういうもんじゃ。作ると必ず、できん者がおる。」

ごいんげさんは、本尊に体を向けました。

「何かしようとしても、本人にはどうしようもない理由やらで、それができん者がおる。そういう、どうしてもできん者こそ助けようという誓いを立てられたのが、今日お祈りした仏様なんよ。ありがたいことじゃ。」

そう言って、ごいんげさんは本尊に手を合わせました。

私は、少し疑問に思って、ごいんげさんに尋ねました。

「でも、毎日念仏をしているごいんげさんと、今日歌っただけの僕たちが同じだったら、なんか不公平のような気がするけど?」

ごいんげさんは、私に体を向けて言いました。

「わしの事を気に掛けてくれてありがとの。大丈夫。皆が幸せになったからといって、わしが不幸せになるわけじゃない。わしは皆よりも幸せになってやろうと、念仏しているわけじゃないしの。仏様は、誰でも、分け隔てなく、同じように助けてくださる。ありがたいことじゃ。」

仏様は、とっても心が広いようです。

お菓子を甘茶で流し込むと、すっきりした甘味が、口にほんのり広がりました。

デジタルが目指すもの

急速に進化するAIは、人間社会や人間そのものを脅かす存在になりかねないと、近年世界的な議論を呼んでいます。

AIは人間の職を奪う。倫理性の問題を生む。AIが自己更新できるようになれば、人間を淘汰するおそれがある。

AIのリスクを懸念する意見は様々ですが、私はこうした議論が生まれる理由は、「AIが人間を写す鏡だから」だと感じます。

ディープラーニングやビックデータ等によって、大規模言語モデルをはじめとしたAIは進歩を続けていますが、そのAIの生成物や性能を評価しているのは、現時点では人間です。

有能な人間も他人の職を奪います。倫理観も人ぞれぞれです。世界中で戦争や民族紛争が続いています。人間自身が、同じような問題を解決できていません。

AIなどデジタルが台頭してきた今こそ、希求すべき根源的な価値や、あるべき社会の姿を今一度見つめ直す好機と捉え、新たな価値観を構築すべきではないでしょうか。

デジタルには、人間より優位な面があります。24時間365日稼働できる、同水準のパフォーマンスを正確に再現できる、時間や場所の制約を軽減できることなどは、素晴らしい利点です。

ただ、デジタルは優れているからと、無闇に普及を進めることはリスクが高いと思います。

「何かしようとしても、本人にはどうしようもない理由やらで、それができん者がおる。」

そのことを意識しなければ、デジタルが無機質なもので、生活を否応なく変化させてしまう脅威に感じるかもしれません。

まずは、これから社会が目指すべきビジョンを皆で共有し、その実現にデジタル技術が有効であれば活用する。一方で、デジタル以外の選択肢も用意するなど、当面は各人の事情に心を配りながら、デジタルに対する社会の受容性を徐々に高めるべきでしょう。

また、デジタルの優位性を強調して、デジタルに苦手意識を持つ方達の気持ちを、いたずらに刺激することは避けるべきです。

私達の生活に当たり前のように浸透し、見えないところで下支えをしてくれる。デジタルはそうした存在でも良いと思うのです。

ささやかに温かい人間関係を支えていた、おばあちゃんの五円玉のように。

これからの社会では、デジタルはより一層社会と不可欠な存在となり、人間と共生するステージへ進むでしょう。

その時重要となるのは、こうした技術を生み出し、使っていく人間こそが、利他的で、取り残されそうな人に手を差し伸べ、社会全体のWell-beingを目指すべきだという志向です。

デジテック運営事務局で過ごした2年間は、これまでの記憶や体験の中から、デジタル社会においてこそ大切となる根源的な価値をすくい上げ、目指すべき未来への羅針盤としてくれました。

まだまだ不勉強の身ではありますが、デジタルが暮らしや生活の中に溶け込み、一人ひとりが豊かさと幸せを実感できる、Well-beingにあふれるデジタル社会の実現に向けて、自分にできることを、少しずつ、意識して、実行していきたいと思います。

決意も込めて、最後はこの言葉を。

今日という日は、残りの人生の最初の日。