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東京へ送り出されて30年。今度は僕が母の手を握る番だ。〈介護幸福論 #37〉

「介護幸福論」第37回。両親の介護を機に実家に戻った。そこで見つけたダッフルコート。ポケットの中にあった受験票が18歳の冬の記憶を呼び覚ました。大学受験のために東京へ出るときに母が手を握って送り出した。それから30年、今度は僕が母の手を握る番だ。

■豪雪地帯にある実家

 東京から実家のある新潟県長岡市に戻ってきて、早くも5年以上が過ぎた。もう6回目の冬を迎えようとしている。

 新潟県といえば一般的には雪のイメージだろう。しかし、本物の雪国に住む人間にとって、雪は季節を感じさせるものではない。

 ぼくは子供時代を、南魚沼郡という日本有数の豪雪地帯で過ごした。ここでは雪が11月から降り始め、3月になってもまだ降り、家のまわりの雪が消えるのはゴールデンウイークの頃だった。

 つまり、雪は11月から4月までの約半年間、身のまわりに存在する日常の景色だから、たいした季節感はない。雪がある季節を「冬」と呼ぶのなら、1年のうち半分が冬だ。

 真冬は家の玄関を出たら、踏み固めた雪の階段を2、3メートル登ってから地上に出る、などと説明して通じるかどうか。スキー場から家までは、スキーをはいたまま帰ってこられた。

 ただし、これも数十年前の昔話であり、近年は雪不足でスキー場が困っているとか、バブルのスキーブームの頃に数千万円で売られていた越後湯沢のリゾートマンションが、今は数十万円で投げ売りされているなんて話も聞こえてくる。

■30年ぶりのダッフルコート

 両親の介護をするようになってからの雪の思い出をひとつ。

 30年ぶりに実家で暮らし始めた最初の冬のこと。外の雪景色になつかしさを感じながら、厚手のコートを探すべく、衣装棚を開けてみた。

 すると、ぼくが高校生の頃に着ていたキャメル色のダッフルコートを見つけた。なんと30年もの間、ハンガーに掛けられた状態で誰も袖を通すことなく、ずっと放置されていたらしい。

 おお! こ、こんなコートがまだ存在していたのか!

 すぐに引っ張り出して袖を通し、鏡に映してみる。サイズは変化なし。そしてポケットに手を突っ込むと、何かが入っているのに気付いた。

 取り出してみると、それは18歳の時の大学の受験票だった。高校3年の冬の受験票が、ダッフルコートのポケットに眠ったまま、実家の衣装棚の中で長い年月を過ごしていたのだった。

 小学校や中学校の行事で、学校のグラウンドにタイムカプセルを埋めてウン十年後に開けましょうという企画があるが、あれの実家版みたいなものだろうか。

 親は子供が巣立っても、子供の部屋や持ち物をそのまま残しておく習性があるから、その空間だけがタイムカプセルのように、時の流れと関係なしに当時のままの状態を保っている。

 ダッフルコートのポケットから出てきた受験票は、18歳の冬の記憶をたちまち呼び起こした。

 東京の大学を複数受験するため、1週間ほど東京のホテルにひとりで滞在したこと。それを心配した母が、家から送り出す時に珍しく玄関の外まで出てきて、ぼくの手を握りながら「気をつけてね」と、本当に心配そうな表情をしたこと。その時に雪が降っていたこと。

■物を通じて、人の記録の回路は開く

 受験票を見つけなかったら、よみがえるきっかけのなかった記憶だ。物を通じて、人の記憶の回路は突然開く。

 いつもとちょっとだけ違う母の様子は、当時、息子の大学受験がうまくいくかどうかを気にかけていたせいだと思っていた。

 でも今になれば、あれは受験どうこうより、社会適応力の低い息子がひとりで1週間も東京のホテルで生活できるのかを、心配していた顔だったとわかる。

 雪の中で母に手を握られ、東京へ送り出されてから30年。たいした人生経験も積まないまま、ぼくはまたこの雪の町へと戻ってきた。

 病のせいで助けが必要になった母の手を、今度はぼくが握ってあげる番だ。握り返してあげなくてはならない。

 ポケットから出てきた受験票をながめながら、ささやかな誓いを立てた日だった。

 田舎に帰ってきて6回目の冬。母にまた別のがんが見つかった。

 もう何箇所目だろうか。ここにすべての病歴を記しているわけではない。ステージ4の闘病を何年も続けてきた身だから、今さら怖くはないけど気持ちは萎える。

 今度は進行の遅い部位だから、急いで手術する必要はないと医師に説明された。

 が、どうせ切らなくてはならないなら、病状が安定している今、早めに手術したほうがいいだろう。母とも相談して、そう決めた。

「しょうがないねえ。もう手術しなくてもいいような気はするけどねえ」
 母は面倒そうに、ため息をついた。

 手術の日。こうして手術室へ送り出すことにもだいぶ慣れたなと、おかしな感慨に襲われながら、寝台に乗せられた母に付き添うと、母が無言でぼくの手をぐっと握った。

 ああ、あの日と同じだ。30年前の記憶が再びよみがえった。

*プロフィール
田端到(たばたいたる)。1962年、新潟県生まれ。大学を中退後、フリーライターに。競馬や野球を中心に著書は50冊以上。競馬の分野では「王様」の愛称で知られる。ほかにテレビドラマや映画のセリフ研究家、アスリートの名言コレクターの肩書きを持つ。両親の介護をするため、40代後半で帰郷。6年間の介護生活を送る。
ツイッターアカウント:https://twitter.com/4jkvvvypj6cdapf

※本連載は毎週木曜日に更新予定です


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