X(Twitter)現代川柳アンソロを読む③

花屋ごと棺桶とする火事かしら
太代祐一

掲載されている句の中でも一際不穏な句である。葬送には花が欠かせないが、故人を送り出すための花を手配する花屋までも巻き込む火事。それをさらりとした言葉で火葬に例えているところが本当に恐ろしい。死の象徴でもある「棺桶」におよそ罪のないであろう「花屋」を強引に内包しようという強引な筋書きを「花屋ごと棺桶とする」という表現しているところが巧みである。

豚バラの花が咲いたら帰りましょ
舘野まひろ

童歌のような響きの句であるが、これもまた何やら不穏である。「豚バラの花」なる奇怪な存在が、この句を優しさと安らぎの世界から遠ざけてしまうのである。白米やらフエラムネが大地から湧き出る『ちいかわ』の世界でもこのような花は決して咲くまい。その豚バラを食物として収穫するわけでもなさそうなところがまた読み手を不安にさせる。

ここにないを探していつも空腹
月波与生

一読すると「何かが抜けている?」と感じてしまう句である。しかし、世界は十七音に収まっている。何も欠けていないはずの構成であるが、しかし確かに何かが「ない」のである。ないものが何かは読み手にはわからない。想像する自由はあるとはいえ、取っ掛かりも何もない。川柳は謎解きではないので無理に追いかける必要性もないが、気にしないわけにはいかない。そうして足りない何かを探しているうちに、私もも満たされない存在であることに気づかされてしまうのだから笑えない。

アネモネを咲かせ原野は静観す
徳道かづみ

作者は領域を支配する魔術師のようである。「原野」すなわち地に焦点を当てていながらここまで広がりのある句を作れるというのは、本当に力量のある作家でなければなし得ないことである。「原野」が静かなだけではごく当たり前の光景でしかないが「静観す」としたことで母なる大地の要素が強調されたように思う。

2の中に潜んでしまう首を見る
成瀬悠

この句もどう切るかで読みが変わりそうである。「2の中に潜んでしまう首」を誰かが見るのか、「2の中に潜んでしまう」誰かが己の、または誰かの「首を見る」のか。私は前者に寄った読みを採用した。「2」なる数字は、確かによくよく見ると首、特に人間のそれによく似ている。数字と生き物とを絡めた表現自体は決して突飛でも斬新でもないように感じるが「潜んでしまう」という言い回しが機能することで、ただの類似性の指摘に終始しない。

顔のまま河を流れていく祖先
西沢葉火

「祖先」なる語がいったい何の祖先を指すのか、この句では明らかにされていない。川柳の世界は物語ほど親切ではない。魔法にかかる人間を選んですらいるような文芸である。いずれにせよ、何かしらのオリジンであるのならば貴重な存在に違いない。しかし「河を流れていく」という表現には、力尽きた敗北者達の屍を思わせる要素もある。ここに「顔のまま」という言葉。「顔だけ」でもなく「頭だけ」でもない、「顔のまま」である。顔の形をした何かなのか、あるものの「顔」だったものなのか。一つ言えることは、この「祖先」からは既に体温が失われているということである。

撃鉄を眠らせ撃鉄を名乗る中島みゆき
西脇祥貴

お馴染みの「中島みゆき」シリーズである。何故作者が「中島みゆき」を繰り返しモチーフとするのかは私にはわからないが、少なくとも句の中の「中島みゆき」と、私達のよく知るあの有名人とではだいぶイメージがかけ離れている。川柳の中では既存の用語や固有名詞を思いもよらない形に加工し組み込む作者が散見されるが、「中島みゆき」シリーズにもそのような試みが秘められているのであろうか。この句の中の「中島みゆき」は、武器の中の最も野蛮な部分を手懐けた上、自分がその野蛮さそのものであると主張している。そこに暴力性はなく、カラッとしたヒロイズムを感じさせる。

七色の勝負下着になりかける

「勝負下着」と称されるからには「勝負下着」たる所以が当然あるのであろう。思い入れを込めるべきポイントは人によりけりであろうが、だいたいは色や素材、形状の中のいずれかではなかろうか。この句では「勝負下着」それも「七色の」それに「なりかける」という。なりかけたのだからなってはいないということなのであろうが、「勝負下着」を身につけるのではなく「なりかける」とは恐ろしい。「七色の勝負下着」に飲み込まれかけたりでもしたのであろうか。

砂の城くずれる肩の荷がおりる
花江なのは

大抵の場合、人は「終わり」を迎えることを好まない。一度終わってしまえば、それはもう二度と元には戻らないからである。理解してはいても、人は青春の終わりを惜しみ、恋の終わりを嘆く。しかし、何事にも「終わり」の時は必ず来る。そして何者も「終わり」を拒むことは出来ないのである。無慈悲なようでいて、その実「終わり」は救いでもある。砂の城が崩れる時、悲しみを抱く者もいるかもしれない。が、守ってきたものが崩れることでようやく手放せるものも確かにある。「終わり」は決して絶望ではないのである。


病院の待合室に二万年
笛地静恵

病院に行って待たされなかったためしがない。私は最長で5時間程待ったことがあるが、この句では「二万年」。おそらく患者かと思うが、そのまま化石になってしまったかもしれない。私の実例など可愛いものである。それにしても、待合室の時の流れは何故ああも遅いのであろうか。



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