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俺ガイルがなんでこんなに流行したかわからない【やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。考察】

数多の作品が生まれ、忘れられていく。そんな流動的なオタクカルチャーの中で、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」は(これは原作の話だが)累計発行部数1000万を叩き出すという大ブームを巻き起きした。
ラノベ版は2011年から、アニメ版一期は2013年から放送開始した。我々と俺ガイルは、7年、9年の付き合いになろうとしている。
ここまでの年月、人々の興味に根を下ろし、完結時に大きな騒ぎを巻き起こした。俺ガイルはもはや、一過性のブームでは片付けられない領域へと達した作品なのだろう。

が、俺はどうしても、「何故ここまで流行したのか?」ということを解せないでいる。何故他のライトノベル、深夜アニメ、ラブコメを差し置いて、俺ガイルは支持を得たのか。
始めに言っておく。その答えは出たのか出なかったのか、考えてみたが、わからなかった。
わからないが、答えが出せなかった理由、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の特異だった点、流行の引き金になっていそうな点などを書いていったので、ご興味があればお読みいただきたい。

俺ガイルが流行したのが頷けるポイント

率直に言うと、俺ガイルの愛好家が続出した理由は簡単だ。ヒットするべくしてヒットしたと言ってもいい。
「何故流行したのかわからない」と俺は言った。これは紛れもない事実だ。しかし、ヒットの理由が一目瞭然だということにも嘘はない。俺が混乱しているのは、(そして俺の混乱のせいでみなさんを混乱させているのは)、俺ガイルのヒットしそうな点と受けが悪そうな点の衝突だ。俺ガイルには、どうしても読者受け、視聴者受けに支障のありそうな要素を発見できる。これについては後で回収する。

さて、俺ガイルが何故ここまで我々の琴線に触れたのか。おそらく最も重要な部分はここだ。

主人公、比企谷八幡に根暗、ぼっち、陰キャの属性が付与されていた

ラブコメ作品でありながら、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」において、ヒロインは二の次だ。いや、ヒロインが重大な要素であることに疑いはないが、それを差し置いて比企谷八幡という人物こそキーパーソンである。
俺ガイルがターゲット層として定めたのは、深夜アニメの話で盛り上がるオタクグループの中高生たちではなくて(それも捕捉はしてるだろうけど)、それを尻目に机に突っ伏して寝たふりをしている、「クラスに友達が一人もいない中高生」だった。

比企谷八幡の視点からその世界が描き出されることで、カースト最下位の、あるいはかつてそうだった人々に居場所を見いださせた。これより以前に、「僕は友達が少ない」という似非ぼっち主人公のライトノベルが流行したが、そのリアリティと言うか切実さは比較にならない。(もっとも、何も考えずに楽しめるという点であちらへ明らかに軍配があるのでこれは優劣の問題ではない)。

ライトノベル、深夜アニメという中高生がアクセスしやすいカテゴリーに、一人でいることの惨めさとか、女子に優しくされたことで勘違いしかけた無様さとか、そういうネタにならない、自分の中で消化するのに物凄く気力と時間を必要とする黒歴史を真っ向から取り扱ったのが俺ガイルだった
恥ずかしくて我々が目をそらしていた物事を目の前に突きつけ、共感してくれた。これが救いになった人は多いだろう。
もっとも、「ぼっち」であることを悲劇のヒーローとして扱いすぎるきらいはあり、それが我々ファンの増長へ結びつき、気持ち悪がられたり「うざい」と言われたり、嫌われたりへも繋がったのだが。

ただ、美化はしているものの、反対にコンプレックスを暴き立てるという、あまり優しくない部分もあった。その冷たい部分が優しさだったりもするのだが。


女性キャラよりも、主人公の魅力が作品を引っ張った

俺個人としては、「一色いろは」が登場するまで、”ラブコメとして"女性キャラたちに尖ったものを感じなかった。ToLOVEる、冴えカノ、化物語のヒロインらみたいに、「これは男受けがいいだろうなあ」という要素を雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣からあまり感じなかった。一色いろはが登場するより前からかなりの人気作品だったので(とはいえ発行部数や視聴率に影響を及ぼしてると思う)、俺ガイルの人気を牽引してきたのはどちらかと言うと女性キャラたちではなく、比企谷八幡だと思う。

といったように、「人気の秘訣」ははっきりとしていて、疑いようがない。俺ガイルの重みは、比企谷八幡がヒロインたちの可愛さを見せるための、ただそれだけのために存在している駒ではなかったところから現れている。
ただし、比企谷八幡は絶大な人気を誇る一方で、嫌いだと言う人々も枚挙にいとまがない。「ヒロインとのイチャイチャを見たい」「考えたくない」人々、あるいはオタクやぼっち、陰キャと呼ばれる人間を調子づかせるのを嫌う人々からすると、目障りでたまらないのだろう。

では、ここからは、「ファンを獲得した理由」と対立すると思われる点へ話を移そうと思う。


「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」は、最強の鬱アニメ、鬱作品だと思う

俺ガイルの屋台骨になる登場人物は二名。比企谷八幡と、雪ノ下雪乃だ。

そこに由比ヶ浜結衣を加えた三名だと言ったほうが模範解答に近いのかも知れない。そしてそれは間違いではない。ただし、由比ヶ浜結衣は、、決して二番手の登場人物ではないものの、一番手の比企谷八幡と雪ノ下雪乃からは数歩引いた、1.1番手くらいにはなってしまうのではないだろうか。
おぼろげな記憶でこれは確かではないが、「由比ヶ浜は比企谷と雪ノ下を結ぶ役目」だと渡航さんがおっしゃっていたと耳にしたことがある。それはそれとしても、由比ヶ浜がいなければ、比企谷と雪ノ下の関係は物語のどこかで空中分解していたか、もしくは端から親密になることさえなかったのは間違いない。彼女の役目が二人をつなぎとめることなのかはともかく、彼女が二人を事実として繋ぎ止めたことは確かだ。

話を戻す。俺ガイルは、比企谷と雪ノ下が関係を破綻させたり修復したりということを繰り返す物語だ。俺の意見として、この作品には主な着眼点が二つ存在する。ひとつは、比企谷のぼっちとしての、対人潔癖症の生き方に共感する見方。もうひとつが、比企谷と雪ノ下の関係に、もどかしさとか切なさとか痛ましさを感じる見方だ。そしてこの両者は相乗効果を発揮する。

俺が「何故こんなにも流行したのか?」と疑問を呈さずに得られなかったのが、まさにこの部分だ。俺にとって、俺ガイルの鬱展開はどの作品よりも真に迫ってきた。


典型的鬱作品の例

鬱作品の代名詞として、よく候補に登るのが「ウルトラマンネクサス」「ドラッグオンドラグーン」などだ。これは紛れもなく鬱展開のオンパレードだが、それらはあくまでエンターテイメントの範疇での鬱展開であり、日常生活には侵食しない。
「日常に侵食しない」とは、どういうことかというと、我々の世界に怪獣もドラゴンもいないので、これら作品で起こる出来事を本当の意味で「リアルに」感じられることはないということだ。なので、どれだけ俺たちの気分が落ち込もうと、あくまでエンターテイメントの範疇、だということになる。

では反対に、リアルな鬱展開とはなんだろう。「ウシジマくん」がそれにあたる。あのような形で人生を転落させた人々は存在するし、一歩間違えば読者の我々がそこまで転がり落ちかねない。

俺ガイルをしいて分類するなら、「ウシジマくん」寄りになるだろう。まあ俺が可憐な少女に囲まれる可能性など微塵も存在しないので、そのような意味でいうとファンタジーやエンターテイメントだということになってしまうが。

ただし、俺ガイルの世界の対人関係、異性関係は、ラブコメ、ラノベ、アニメ的ではありながら、すなわち、うだつの上がらないオタク属性の該当者たちに夢を提供しながら、その対極の性質も持っていた。
俺ガイルの登場キャラクターたちは、とりわけ雪ノ下雪乃は、我々の願望を反映させただけの、「魅力」だけを備えた都合のいい虚構の存在ではなかった。

雪ノ下雪乃というトラウマヒロイン

率直に言って、現実の人間はめんどくさい。俺もあなたもきっとめんどくさいし、著名人もYouTubeのあの人も気になるあの娘も、腹を割って話したら例外なくかったるいことになる。Twitterを眺めれば、どこでも対立が起こっていて、何かへの罵詈雑言で溢れかえる。「ネットの意見が世間の趨勢ではない」とよく言われるが、俺はそれに半分は同意するが半分は同意しない。現実の人間は現実で本音を言わず、匿名のネット上でそれを吐き出すからだ。
ツイッターは、忌憚のない人間の本音におそらく最も近いメディアだと思う。そして、本音へと近づけば近づくほど、俺たちは対象の人物に幻滅し、人間の限界を悟る。

人と人とが、正真正銘手心も虚飾も一切のない、十割の本音でぶつかりあったとき、そこには破局の可能性以外残されていない。どれだけ価値観に共通点を見いだせたとしても、人間にはそれぞれイデオロギーがあり、しかも本質的には「違う価値観を認めましょう」などとは考えていないからだ。
なので我々は、他者の気に入らない点を「黙認する」という形で許す。あるいは、許せずに排除するかどちらかだ。「受け入れる」のは、自分と近い価値観の場合だけだ。そして、全ての点において相手と自分の価値観が一致するケースは存在しない。


理想の対人関係という夢

しかし俺たちは、そんなことは二次元のキャラクターには無縁だと信じ続けてきた。「100%お互いを認め合える理想の異性」を生み出し続けてきたのだ。

さて、比企谷も雪ノ下も、他人との理想の関係を夢見ながら、人間に失望している者たちだ。投影先がアニメキャラだというわけではないが。

とはいえ、対人関係における考え方に関して、「オタク」と彼らは共通点がある。「現実に興味がない」という態度をいかにも取りつつ、内心では気になってたまらないところとか、すぐ他人に期待するがあっさり失望するところとか。
比企谷と雪ノ下はお互いにお互いへ理想を見て、失望し、失望されてきた。

比企谷八幡の「本物が欲しい」というセリフは、比企谷と雪ノ下の本心を引き出したものであり、そしておそらく作品中の登場人物たちの気持ちであって、なおかつ俺たち読者、視聴者たちの望みでもあるような気がする。
お互いにとってお互いが唯一無二の存在であり、相手を一片たりとも疑う余地がなく、相手も自分へ全幅の信頼を置いている。「本物」とはおそらく、おおむねそのようなものだろう。その「理想」を見つけられなかったから、比企谷も雪ノ下も心を閉ざし、対人関係への消極さを形成した。

この二人以外の登場人物たちは、妥協しつつ円滑に対人関係を構築している、いわば大人だ。一見誰よりも大人びているように見える雪ノ下雪乃は、完璧ではないものを許容できない点において、実は物凄く幼い。雪ノ下に比較すれば、比企谷の許容度は高く、というよりもある種の諦観があり、ろくでもない妥協と欺瞞まみれの人間関係を肯定した。そして、それが比企谷と雪ノ下の関係へ亀裂を入れる原因になった。
比企谷よりもさらに潔癖で、完璧な人間関係、信頼関係を乙女のように夢見る雪ノ下は、この瞬間比企谷に失望した。「理想像」として出来上がりつつあった雪ノ下の中の比企谷は、ここで崩壊した。まさに、脆弱なメンタルを持つ人間のムーブに当てはまる。雪ノ下は決して完璧超人などではなく、期待と失望のサイクルが早い小娘でしかなかった。


俺ガイルに俺が与えられたトラウマ

ここで注目に値する点が少なくとも二つある。鬱要素の話へ戻ろう。
俺の中では上記の、「雪ノ下が比企谷に失望するシーン」が、歴代最強クラスのトラウマとして刻み込まれている。他のどんな鬱展開よりも、俺はこの場面にショックを与えられた。この場面が、俺ガイルを読んだ後の俺の行動にも影響を与え、総合的というか長期的に見れば、俺ガイルのせいでただでさえ暗い性格が二倍くらい暗くなったと思う。

まずひとつ、この場面が物語の構造的に鬱展開だったということだ。つまるところ単純に「ショックな場面だった」ということだ。
このエピソードの前のエピソードが、対称的に比企谷が雪ノ下へ失望したせいで関係がこじれる、というものだった。しかし無事に和解し、二人の絆はより強固になっていた、ように見えていた。

その次に今度は真逆の「雪ノ下が比企谷に失望し関係が破綻する」というエピソードが現れ、「主人公とヒロインの強固な絆」という幻想が砂上の楼閣のようにもろく崩れ去ったから、あのときの我々の落ち込みは計り知れない。
それも、言うまでもなく「失望する」よりも「失望される」方が鬱度は高い。

そしてもうひとつ、あの鬱シーン、ひいては「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」が暗示したのは何か。
これが「ドラッグオンドラグーン」でも「ウシジマくん」でも例えようのない鬱要素。俺ガイルのせいで、現実だけではなく、「現実逃避」までもが侵食されたということだ。

俺ガイルは、決定的に、我々オタクたちの幻想の象徴であるラブコメヒロインが「ただの人間、ただの小娘に過ぎない」ということを突きつけた。
雪ノ下雪乃のファン層がどれくらいの厚みがあるのか俺にはわからないが、少なくともトラウマシーンが訪れる以前、彼女は俺にとって「理想の女性キャラクター」だった。

(雪ノ下に関しては、表面的に「クールでツンケンした性格がどうこう」よりもむしろ渡航氏の巧みな筆致によって見せられる多角的な奥行きに魅力が現れていて、なんというか、別に彼女が好みのタイプでなかったとしても読者がある程度彼女を好きにならざるを得ないように俺ガイルそのものが出来ている、というように感じる)

意中の女性に三行半を叩きつけられるトラウマとともに、もう一個我々が受け取ったのは、ヒロインへの幻滅と失望。
ヒロインに失望される経験を通じて、不思議なことに我々は、ヒロインに幻滅した。
これが起こる理由は簡単で、俺たちにとっての、そして比企谷にとっての雪ノ下にとっての「理想の関係」の条件に、お互いへ揺るぎない全幅の信頼を置いていることが含まれるからだ。どちらかがどちらかに幻滅した瞬間、その幻滅はもう片方へ伝染する。「自分に失望した相手に失望する」のだ。

俺たちの心を慰撫してくれる、理想のラブコメヒロインという像は、雪ノ下が比企谷に失望の態度を取った瞬間に消えた
このとき俺の中から滅びたのは、「理想の雪ノ下雪乃」だけではない。「理想のヒロイン像」すべてが消えた。
それが何故かと言うと、類推できるからだ。「俺はこれまでラブコメというものに癒やされてきたけど、それって物凄く都合のいい妄想なんじゃないの?」ということは、当然オタクはほぼ全員理解している。しかし、「萌え」という情動に、あくまでさしたる影響を与えないレベルだったその認知を、俺ガイルは強固にしてしまった。

あらゆるライトノベル、深夜アニメにおいて、どんな理想的なヒロインがいたとしても、どんな理想的なヒロインと主人公の関係があったとしても、俺たちはもう一皮むけば人間関係なんてたやすく壊れるのを、あのとき知ってしまった。現実世界では、それを多少はわかっていた。だから創作物の世界に逃げ込んできたんだ側面もある。しかし、俺ガイルは、現実逃避先の世界にリアルを持ち込んでその脆弱さを暴き立ててしまった

たとえ相手がラブコメヒロインだったとしても、一歩ミスれば失望され、もう終わりなのだ。現実では俺たちがもう嫌というほど知っていることだ。


何故俺ガイルは流行できたのか?

ひとつめに、ただでさえ俺ガイルの鬱展開は強烈だった。ふたつめに、俺ガイルで落ち込んだ気分は、俺ガイルの世界だけでは完結せず、現実世界へそれを持ち込ませた。
ここで最初の疑問に立ち返る。何故「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」がこんなにも流行したんだろうか?
もうおわかりかと思うが、俺は決してこの作品を軽んじているわけではない。ただ、この圧倒的なトラウマメーカーが人々に受け入れられているのを、俺は今でも信じられない気持ちで眺めている。

一癖ありつつも、「美少女とともに部活動をする」というキャッチーな開幕から始まった俺ガイルだが、鶴見留美の登場回は俺たちに衝撃を与えた。
これを皮切りにこの作品は鬱展開のオンパレードとなり、文化祭や修学旅行編へと続く。

実は、これは最近の流行作品の傾向と一致している。「最初にキャッチーで誰でも咀嚼できる展開で釣っておいて、後々人を選ぶような要素を追加していく」のが、爆発的ヒットを叩き出す条件ともいえる。

進撃の巨人もそれだ。あれは最初わかりやすいほどの勧善懲悪で、母親が食い殺されたことも鬱展開というよりは「巨人を悪として印象づける」ための場面だった(とはいえ、今後への萌芽はあったけど)。今の進撃の巨人には、そんな単純明快さはない。概して、勧善懲悪ではない物語は人を選ぶ。人間は二者択一ではない、グレーゾーンの曖昧さに耐えられないよう出来ている。

しかし、もし進撃の巨人が勧善懲悪の物語であったなら、ここまで面白くなかっただろうし、売れてもいなかっただろう。
何故か人を選ぶ展開のほうがヒットに繋がるというのがあり、なのにややこしいことに、冒頭から人を選ぶ展開だとあまり受け入れられない。

俺ガイルも冒頭と鶴見登場以降で異なった様相をしている。これが今の「王道」だというのもわかっている。
しかし、それでもどうしても腑に落ちない。何度も言っているように、俺ガイルから受けたトラウマが、他作品から受けたトラウマの比ではないからだ。限度を越えてしまってるんじゃないかと思う。世間の人々は、案外さしてダメージを受けていないのだろうか。

実を言うと、俺は俺ガイルの最終話を見ていないし最終巻も読んでいない。原作はマラソン大会の巻までしか読んでいなくて(10巻だっけ?)、アニメは一期しか見ていない。
面白くないとか興味がないからではなく、疲れるからだ。
俺ガイル続の放送数ヶ月前くらいに原作を読んで、その後視界から追い出した。俺ガイル続が放送している期間、俺は身を縮めて嵐の過ぎるのを待っている気分だった。もうあれが五年前だという事実に今震えている。時の流れって恐ろしいですね。

俺は雪ノ下が留学してこの話終わるのかな、と思ってたんだけど、(平塚が思わせぶりに留学の話してたし、一期のEDテーマが留学を暗喩しているような節がありました)、なんかどうも違うらしい。ツイッターで雪ノ下がご健在の画像を見かけた。
どうもハッピーエンドのようですね。でもハッピーエンドだってわかってても無理だわ。

人生で一番影響を受けた作品は何か、と聞かれたら俺は「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」だと答えざるを得ない。
こういった機会にライトノベルの名前を出すのは恥ずかしいので、それも長文タイトルで「ラブコメ」というキーワードが入っているものを選びたくないのだが、しかしどう考えてもこれが事実なので避けられない。

俺ガイルのせいで漫画もアニメもライトノベルも、見る目が完全に変わってしまった。「うすうすわかっていたこと」に、強烈に実体を与えられた。もう俺はあの頃のような気持ちで現実逃避をすることができない。

俺ガイルがもたらしてくれた救いと共感

一応補足しておくと、俺ガイルが与えたのはトラウマばかりではない。俺たちに救いも与えてくれた。
印象に残っているのが、戸塚の初登場のシーン。俺もああだったので比企谷の気持ちがよくわかる。一人に慣れている人間は自分と他人を分けて考えているので、他人の輪の中に自分がいることを考慮しない。だから教室へ戻るとき、由比ヶ浜と戸塚を尻目に、二人とは別々に教室へ戻ろうとするのだが、二人は「何してんだよ。一緒に帰るぞ」という視線を投げかけてくる。

俺は多分一生続きを読みませんし視聴しませんが、渡航さん、関係者の方々やアニメ制作陣の方々、本当にお疲れさまでした。
そして原作の完結からもう一年経とうとしていることに震えている。

最後に、俺が一番好きな比企谷八幡の独白です。

「だから働きたくなんてなかったんだ。いつかきっと失望させてしまうから」

これで合ってるよな?

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