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マグレブと水タバコ

おそらくこれは夢だろう…と意識のどこかで分かっている、にも関わらず、私はグイグイとその不思議な音色に引き込まれ、妙に煙臭い路地の奥へ奥へ…と入って行く。
30歳の誕生日に心臓に発作が起きて、それ以来煙草をやめた。だがその臭いは鼻の奥のそのまた奥の、記憶の嗅覚をツン!と突き抜けて脳天の一部に小さな穴を開けた。

よく聴くと、大好きなグナワの響き。実際にはまだその域には一歩も足を踏み入れた事がないのにまるで故郷にでも帰って来たような、この懐かしさは一体何だろう…。

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まだ治安が今ほど悪化する前に一度、出張でカイロに行かされた事があった。とにかく暑いし言葉も通じないその土地で緊張と長旅に疲れた私が最初に向かった先は、客に水タバコを半ば強引に吸わせるためのオープンカフェだった。

そこではまるで酸素吸入でもするクランケの如く、数十人もの汗臭い労働者たちがしんしんと水タバコを吸い続け、午後の最も暑い時間帯をただそれだけのために過ごしている。
私もその一員に紛れたくて、あの発作で暫くやめていた水タバコを吸いたくなってカフェの気怠いタバコ族の一員に紛れて、そして無心で煙の群集に紛れて行く。

特にタバコが美味しかったわけではないが、その土地の神にでも認められたような気分になり、その後の仕事が思いのほか順調に進んだのもあの水タバコの午後のお陰だったと今でも時々懐かしむ。

あの時の事をつい先日いきなり思い出して、そして懐かしんでいたせいか、今こうして私は夢の中で水タバコの黄昏を再現している。
遠くからスーフィー音楽の打楽器と歌声が響き、街角を数人の女性の踊り子たちが体をくねらせ、客に媚びておひねりをせがみながら通り過ぎて行く。
ポケットからくしゃくしゃになった紙幣を数枚女性たちの胸元に押し込むと、ニヤリと笑みを浮かべ女たちは次の客を求めて移動して行った。

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幾つかの打楽器集団が戦うようにして、黄昏の街角で互いの演奏を競い合っている。より強くより正確なリズムを長時間、体力に任せて叩き続けられるグループがこのイベントの勝者だと言わんばかりに、彼らはそれぞれのビートで相手の音楽を殴打するように大地にドラムを響かせる。

ある種の高揚が街を包み、私の水タバコもグイグイ進んで行く。鼻から何度も何度も煙を吐くと、もう今日の仕事は明日に引き延ばしてこのドラム集団の中のどれが勝利者となるのかを、この目で確かめたい衝動に駆られた。
私は約束を堂々とキャンセルして、この暑いさなかの午後のイベントの群集に紛れた。

…だけど。これは夢なのだ…と、心の中の誰かがさっきからしきりにつぶやいている。
そうかもしれない。これは夢なのだろう、きっと。
だが、夢にも物語があって、起承転結のようなものがあるに違いない。

そう、これは映画なのだ。全ては現実に似せたおとぎ話、フィクションなのかもしれないけれど、そのフィクションの結末を見届ける自由ぐらいは私に残されている筈だと自分に言い聞かせ、いつ終わるとも分からない水タバコの夢の中で私はドラムの競演に聴き入りながら、空の半分を埋め尽くしている、実際にはあり得ないような巨大な太陽に向かって幾つも幾つも煙の輪を吐き続けた。


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