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Gabriel's Message

ある日仕事から帰宅すると、部屋の中はもぬけの殻だった。

その朝妻はいつも通りにオムレツとポタージュ、そして薄めのコーヒーをテーブルに並べて、いつも通りの笑顔で僕を仕事に送り出してくれた。
一週間前辺りからお腹が痛いと言って、何度か病院に行き医者に診てもらっていた事は聞いていたけれど、本当にそれ以外の妻の変化に僕は全く気づいていなかった。

僕は美術品の運搬の仕事を、彼女は内科病棟のナースだった。なかなかゆっくりと会話をする時間が取れず、妻は夜勤が多く朝帰宅すると直ぐに布団に入る事が増えた。
それなりの役職を任されているらしいという事は傍から見ても分かるので、なるべく家の中ではストレスにならないように僕から話し掛ける事も避けて、僕なりに気を遣っていたつもりだ。

結婚して6年目。
結婚記念日を忘れていたわけではなかったが、前の日もその日も翌日も「夜勤」と書かれたカレンダーの小さな文字を僕は見落とす事はなく、だから尚更静かにその日一日を過ごしたいと願い、そっと指輪のプレゼントを寝室の引き出しに忍ばせておいた事さえも彼女には内緒にしていた。


妻が忽然と姿を消したのは、その前日だった。それまで二人で6年がかりで着々と買い集めた家具もろとも跡形もなく消えてしまった深夜の自宅で、僕は愕然として崩れ落ちた。
唯一僕の私物だけが残された寝室とリビングの一部分、それ以外は綺麗さっぱり、最初からそこに何もなかったみたいにそれまでの6年間の殆どが消え去っていた。


テーブルの上に一通の手紙が残されており、そこにはとても不思議な事が書かれてあった。
それによると、「私は神様からの子供を授かった…。神の子を授かった以上、もう俗世間で生きて行く事が出来ない。だから静かに神の里に身を潜め、ここからの人生を神職に捧げて子供と共に生きて行く。」と。

彼女はいつか僕に、ナースを辞めたいと相談して来た事があった。人の生死に立ち会う事も多い仕事柄か彼女は段々と不思議な光景を目にする事が多くなり、それが精神的にとても辛いと僕に訴えて来た。だが、僕は彼女の話を殆ど真に受けず、そんな理由でこれまで頑張って来た仕事を辞めていいのだろうかとむしろ彼女に仕事の継続を勧めたが…。

便箋のたった半分ほどのスペースに書かれた彼女の最後の言葉の行間から、あの時彼女がどんな思いで僕に相談を持ち掛けて来たのかについて、ようやく気が付いた。そして妻が本当にそういう不思議な力を持つ女性だった事をあらためて知ると、心からあの時の自分の態度を責めるしかなかった。

ポルターガイストや心霊の話は所詮、テレビドラマや映画の中だけの作り話だとはなっから信じていなかった。だがこの世界に、本当にそういう不思議な光景を見てしまう人がいると知り、何より僕が妻を心底信じられなかった事を今さらのように悔やむしかなかった。


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寝室には僕のベッドと机とテレビ、そして洋服箪笥が残され、妻の鏡台もドレッサーもラジカセも本棚も天体望遠鏡も… 全てが一切合切なくなってガランとした空間に変わっていた。

飼い猫のミーシャは妻に懐いていたが、それまでリビングに縄張りを主張していたミーシャが寝室の、妻のいた場所にゴロンと横たわり夕食を僕にねだって来たので、僕は部屋の隅に積まれた猫の餌缶の一つを選んでお皿に入れてやると、「ママは今日は遅いね」と言うように寂しそうに皿の中に顔を突っ込んで食べ始めた。

さっきまで僕は仕事で飲みの席にいたのでお腹は一杯だったが、玄関に入った途端に酔いがいっぺんに醒めてしまった。誘拐か!と思い110番しようか…とも思ったが、テーブルに置かれた妻の直筆の手紙を読んでその考えが変わり、そろそろと寝室に入りしばらく茫然と時間を送った。


そして妻は一体、本当は誰の子を身籠ったのか…と、再び彼女を疑うような事を考えていた。だが妻は昔から僕にだけは嘘を言った事がなかったし、誰か他の男の子供を身籠るような女性ではないという確信があった。だとしたら彼女は本当に神の子を身籠ったのかもしれない…。

僕は大切な宝物を神に献上したような妙な気分になり、徐々に高揚し始めた。そんなに尊い女性と少なくとも6年の間夫婦でいられた事を、少し誇りにも思い始め、どういうわけか生贄を捧げたようなおかしな神妙さが僕を包み込んで行く。
そして何より、不思議とかなしみとか寂しさとか、そういう感情が自分の中に全く湧き起こらない事に少し驚き、だけど最初からこの結婚生活が何かとてつもない理由でいつか終わってしまうのではないか…と、いつからか思っていた自分の勘が当たってしまった事に、不謹慎にも歓喜している。


彼女が消えてから3年後のクリスマス・イヴの朝、ミーシャが虹の橋を渡って逝った。その夜僕は不思議な夢を見た。
妻のカレンが枕元に立ったのだ。
「ミーシャを無事に睡蓮の丘まで送り届けたから、もう心配しないでね。」…

彼女は5歳ぐらいになる男の子の手を引いて、僕の前に光り輝いて佇んだ。子供の背丈は5歳児ぐらいの筈なのに、顔つきはとてもませて既に大人のような瞳をしていた。

「この子は神の子、だから私たちの子供と同じよね。大切に育てて行くから。…」
そう言い残し、彼女と少年はすーっと夜明けの空に消えて行った。


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