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飛び出せ!佐久間探検隊

第四十回 日本初の沈埋工法トンネルを探検!


ドモドモ。
佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。

大阪市西区の九条と此花区西九条の間は、
今でこそ阪神電車で一駅、すぐの距離になります。
しかし昔はそうではありませんでした。
間には安治川が流れているからです。

「橋を架ければ済むじゃないか」

そう思う人もいるでしょう。
しかし安治川は工業都市大阪の運搬ルートという側面があります。
大型の貨物船が通るので、橋だとかなりの高さが必要になります。
実際、阪神電車の安治川橋梁は、かなりの高さです。

「橋がダメならトンネルを掘ればいいじゃない」

そう思う人もいるでしょう。
しかし上記の理由により河底もギリギリの深さしかなく、
普通にトンネルを掘ればかなりの大工事
になってしまいます。
そのため考えられたのが、渡し船でした。
しかし渡し船では人や自転車などは運べても、
クルマを運ぶのは不可能
です。
そこで考えられたのが、沈埋工法によるトンネル
沈埋工法というのは陸上で筒形のトンネル本体を製作し、
河底に掘った溝に埋めてトンネルにするという工法
です。
1876年に工法の特許が取得され、
1885年にオーストラリアで初めて施工されました。
九条と西九条の間でも1935年に計画され、1944年に完成しました。
それが安治川トンネルです。
安治川トンネルは日本初の沈埋工法によるトンネルでした。
今回その安治川トンネルを探検すべく、
探検隊は阪神なんば線九条駅に降り立ちました。




改札を出て階段を上がり、地上の1番出口へ。
目の前の道路は中央大通になります。




出口の目の前には出口が。
こちらは大阪メトロの九条駅の2番出口です。




出口から交差点へ向かいます。
高架を走るのは大阪メトロ中央線の400系
その特異な外観が

「まるで宇宙船みたい」

と話題になった電車です。
しかしメトロって日本語で地下鉄って意味なのに、
高架を走ってる風景はシュールですね、




交差点に到着しました。
流石大阪市内を走る幹線道路とあって、かなりの道幅です。
1回の青信号で渡り切れるか、少し不安になるほど。




なんとか1回の青信号で交差点を渡り終え、先へと進みます。
右側の飛び出してるフェンスは、大阪市立九条東小学校になります。




しばらく歩くと道路の中央に何やら謎の物体が現れ、
道路の中央部を占拠しはじめます。
しかもそれはかなりの大きさです。




謎の物体に近づいてみました。
なんか近未来的なデザインですね。
周囲の風景から完全に浮いていて、異質な雰囲気を醸し出しています




横から謎の物体を見たところ。
良い加減タネ明かしをしますと、
謎の物体は阪神なんば線を覆うカバーなんです。

「線路の出入口にカバー?けったいなモン付いとるなぁ」

そう感じる人もいるだろうと思います。
しかしこのカバーが阪神なんば線のキモであり、
なんば線が阪神電鉄の悲願であった象徴
なのです。

大阪梅田駅を大阪の起点とする阪神電鉄には、
長年抱いていた大きな夢がありました。

「キタの梅田だけでなく、ミナミのなんばにも進出したい!」

そういう夢です。
元々がインターアーバン(鉄道と路面電車の中間的なモノ)だった阪神は、
線路にカーブが多くて「阪神電鉄カーブ式会社」といわれたほど。
大阪ー神戸間の所要時間では、国鉄(今のJR)や阪急に勝てませんでした。
そこで阪神が思いついたアイデアが、ミナミへの進出だったのです。
幸いにして阪神間で阪神の線路は、一番海側を走ってます。
山側を走る国鉄や阪急と違って、比較的簡単にミナミへ進出出来そうです。
それが実現すれば、他社に出来ないミナミから神戸へ直通でき、
大きなアドバンテージになるのは確実でした。
そこで阪神は同じミナミ進出が念願だった近鉄と手を組み、
阪神の野田駅から近鉄の鶴橋駅を結ぶ鉄道を計画しました。

ところがそれに異を唱えた存在があったのでした。
大阪市交通局(現:大阪メトロと大阪シティバス)です。
大阪市交通局には一つの信念がありました。

「大阪の交通はぜーんぶ交通局でやるんや!」

これは市民サービスを考えた親方の大阪市の考えで、
「市営モンロー主義」と呼ばれるもの
でした。
特に大阪環状線内をテリトリーとし、
その内側へ入る私鉄の新線計画は大阪市の反対により、
ことごとく潰されました。

代表的なのが京阪の梅田延伸計画です。
何度も潰されたので京阪は1963年に淀屋橋駅へ延伸するまで、
天満橋駅が大阪側のターミナルとなっていました。

当然、阪神と近鉄の計画にも猛反対
それどころか同じルートを通る地下鉄5号線(現:千日前線)の免許を、
1948年に申請しました。

阪神と近鉄は先手を打たれてしまったのです。

しかしちょうど阪神には「第二阪神線」という計画がかつてありました。

「本線がカーブだらけなら、新線を作れば高速化出来るやん」

大阪を挟んで反対側の京阪が新京阪線(現在の阪急京都本線)を作ったのと、
同じような計画でした。

その一部を伝法線として、
尼崎駅-千鳥橋駅間を1928年までに開通させてました。

しかし時代は昭和恐慌。
計画は中止になり、伝法線は中途半端な存在のままでした。

そこに目をつけ、ミナミ進出の足掛かりにしようと思ったのでした。
まず1964年に千鳥橋駅から西九条駅までを延伸し、
同時に伝法線から西大阪線へ改称
しました。
そして1967年から残る区間の土地買収を始めましたが、
新たな敵が立ち塞がったのでした。
地元である九条の商店街や住民たちです。
商店街は客がミナミへ逃げてしまうという死活問題、
住民は線路によって街が分断されてしまうという大義を掲げ反対しました。
その反対運動は熾烈なもので、
ミナミへの延伸工事は中断の憂き目となりました。

そのまま放置プレイが続いたのですが、時は流れて1990年代。
商店街にかつての勢いはなく、
反対どころか現況打破のため賛成に回りました。

また延伸予定区域に大阪ドームも開業しました。
その上大阪市西部の地域活性化の起爆剤とされ、
2001年にやっと上下分離方式での建設が決まりました。
そうして2003年に着工し2009年に開業となったのですが、
住民側からの

「プライバシーに配慮して欲しい」

との要望に応えたカタチが、このカバーなのです。
阪神としてはやっと工事にまで辿り着けた悲願、
これ以上トラブルでの工事延期は何としても避けたかったのでしょう。




なんば線があるのを除けば、いかにも下町という風景。
なんば線は進むにつれて高くなっていってます。




なんば線はかなりの急こう配で高くなってます。
この先の西九条駅が高架の大阪環状線を跨いでいるからです。
そのためここは40パーミルという、普通鉄道では限界に近い急こう配。
1000メートル走ると、40メートル上昇
するわけです。




下町の風景と近代的な高架のなんば線。
なんかシュールな風景ですね。




カバーを横から見たところ。
ちょうど阪神電車が通過しているところです。
ドア部の黄色でかろうじて阪神電車と分かるレベルですが。




そんななんば線ですが、
やはり地下から高架にするのは無理があったようで。
場所によっては桁下制限高が2.5メートルの場所もあります
桁下制限高が2.5メートルという事は、
中型トラックのキャビンがギリギリ入る高さ
荷台が平台じゃなく、箱だったらアウトです。
小型トラックでも宅急便でお馴染みのクイックデリバリーは、
ウォークスルーのため全高が高いのでアウト
になります。
2トントラックも箱によってはアウトに。
路線バスは小型のポンチョでもアウト
マイクロバスもアウトになる高さです。
つまり、確実に走れるのは乗用車とハイルーフの1BOXまでだけ。
だからこれも反対運動の一因となってました。




やがてなんば線は完全に高架となり、道路と交差して左右を入れ替えます。
鉄道の高架なので、柱がかなり太くなってるのが印象的ですね。




高架を一本の柱で支えてる場所は、さらに太さが際立ちます。
写真はちょうど交差している場所ですが、
柱は歩道の半分近くの太さになってます。




なんば線と交差した後、道は商店街と合流します。
キララ九条商店街です。
大阪メトロの九条駅前から続く、人情溢れる下町の商店街。




商店街には、アーケードが完備されてます。
訪れた日は、今にも雨が降り出しそうなお天気。
そんな日でも気にせずお買い物ができますね。




商店街を少し歩くと、信号のある交差点に出ます。
交差点の名前は源兵衛渡。
明治時代の初め、ここには安治川橋がありました。
当時は珍しかった鋼鉄製で、
大型船が通行出来るよう橋桁が旋回する構造
でした。
しかし1885年6月の洪水で橋脚に流木が溜まり川をせき止めてしまった為、
爆破されてしまった
のでした。
こうして橋はなくなったのですが、交通の需要は橋があった当時のまま。
そこで源兵衛という人物が、1897年に渡し船を始めたのでした。
依頼重要な交通手段として利用されていたのですが、
需要増加によって安治川トンネルが計画され、
完成した1944年にトンネルに後を譲って廃止されたのでした。
しかし交差点の名前に源兵衛渡の名は残っているのです。




交差点を渡ってすぐ見えるのが、この建物。

ここが安治川トンネルの九条側の出入口になります。

前述通り1944年に完成した建物です。
今年で完成から80年経ちますが、手入れが行き届いてるのか綺麗ですね。
そんなに古い建物とは思えないくらいです。





トンネルへのエレベーターは三基あるのですが、
写真のこの二基は自動車トンネル用でした。
そう、かつて安治川トンネルには自動車用トンネルがありました
維持費ねん出の為自動車用トンネルのみ有料だったのですが、
最盛期には1日1200台の通行量がありました。
その後国道43号線の安治川大橋の開通による交通量の減少、
トンネル内の排気ガス問題等により1977年に車両は通行中止となりました。




左側の自動車用エレベーターの上にある、扁額。
正式名称が安治川トンネルなのに「安治川隧道」なのは、
開通したのが1944年という事が影響してるんでしょうね。




自動車用エレベーターの隣には、運行管理室が。
トンネル内の犯罪を防止するため、監視カメラが設置されています
併せてトンネル内に職員さんが滞在して、警備なさってます
時間帯によってはエレベーターの操作も。
その職員さんの詰所ですね。
おかげで自分達はトンネルを安全に利用出来ている訳です。




詰所の隣には、歩行者用エレベーターが。
自転車も利用できるためか、かなり大型です。
車両用と同じぐらいの大きさに見えます。
たまに駐車場にあるクルマに乗ったまま利用するエレベーターが、
こんな感じですね。




トンネル自体は24時間通行可能なのですが、
エレベーターは運行時間が決まってます

6時から24時までです。

それを表した注意書きの看板。
当然、トンネル内は防火の為火薬やガソリン等は持ち込み禁止です。




歩行者用エレベーターの隣、建物の一番左にあるのが階段です。
前述通りここは歩行者専用
階段の角度がわりと急だからでしょうね。
自転車等の誤進入を防ぐため、鉄パイプの柵が設けられてます。




自転車利用者へのエレベーター利用を促す看板。
24時から6時までの時間帯は歩いてでないと、
トンネル内は通行出来ない
という事ですね。




トンネル内で異常が発生した場合、注意を喚起する赤色灯。
上にスピーカーがあるので、サイレンも鳴ると思われます。
緊急時が一目で分かって安心ですね。




それではトンネル内に入ってみます。
降りるのは階段から。
タイル張りという事もあって、昔の地下鉄の出入口と似た雰囲気が。
ただ前述通り階段の角度は急になってます。
だいたい町家の階段より少し緩いぐらい。
今の基準だとやや急だと言えます。
ここら辺りは歴史の古さを感じますね。




踊り場の先には、また同じような階段が
それを何回か繰り返して、平坦部へ降りて行きます。




平坦部へ降りたところ。
前面に装飾タイルが貼られているので、
雰囲気が大阪メトロ天王寺駅の御堂筋線から谷町線への連絡通路みたい。
ちょっとレトロな空間です。
右に見えるのは、歩行者用のエレベーター。




地下側の歩行者用エレベーター。
地上側と同じような雰囲気です。




西九条側へ歩き始めます。
天井はやや低め
独特な形状をしているのは、沈埋工法だからでしょうか。




前述通り、天井には監視カメラが。
そして職員さんもいらっしゃいます。
女性一人でも安心して利用出来ますね。




トンネル内に貼られている案内。
ここはちょうど中間ぐらいの場所でした。




近くに貼られていた、緊急時の注意書き。
「大阪市建設局」とあるので、職員さんも建設局の方という事ですね。




さて、西九条側の出入口が見えてきました。
書き忘れてましたが、トンネルの全長は80メートルほど。
歩いて渡ってもそう時間はかかりません。




西九条側エレベーターの地下出入口。
九条側と似ていて、区別がつきにくいのですが。
階段を登るのはしんどいし、試してみたいのでエレベーターに乗ります。





エレベーター内の操作パネル。
九条側の地上出入口にあった看板の通り、混雑時は職員さんが操作します
操作する職員さんに利用者が一言、

「ありがとう」

と伝える微笑ましい一幕もあるそうです。




西九条側の地上出入口横にあった看板。
どうやらここはトレイルルートになってるようです。




西九条側の車両用トンネル上にあった、扁額。
こちらも右書きで「安治川隧道」となってますね。




今は点灯する事のない、車両用エレベーターの表示板
すごく大きいです。
まぁ車両用ですからねぇ。




西九条側の出入口を少し離れ、振り返ってみました。
建物の左に見えるのは、なんば線です。
感じたのは地元のアシとして根付いてること。
取材したのは土曜のお昼時でしたが、多くの方が利用なさってました
老朽化などの問題はあると思いますが、
いつまでも利用出来たら良いのになぁと思いました。

「日本初の沈埋工法トンネルを探検!」

おわり。

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