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対話の場におけるファシリテーター

対話の場におけるファシリテーター
 対話を追求するということ。対話で本当に「聴く」ということと対話スキルをみがくことについての考察。
 対話の場でファシリテートするのに当事者としての立場でファシリをするということがある。


ダイアローグのエチケット、基本的ルールとして 
• 本人(家族)がいないところで、彼らの話をしない、物事を決めない
• 全員の声が、敬意をもって耳を傾けられ、平等に、対等に扱われる
• オープンであること。透明性の原則(特に支援者側の)
• ポリフォニーと他者性の尊重
• 不確実性への耐性。不確実な状況でこそダイアローグを続けること
• ダイアローグ主義。問題解決よりもダイアローグの展開を重視、優先する
• 聴くこと(聞く人、時)と話すこと(話す人、時)を分けること
• ダイアローグの場面と、判断・決定の場面を分けること
白木孝二
ダイアローグ・ミーティングに必要なこと。
• 他者の声/話を聞くこと、耳を傾けることが始まりで基本。
• 他者の話を遮らず、最後まで聞く姿勢の共有
• 他者の他者性(自分とは異なっていること)を尊重し、他者性に敬意を払うこと。
• 他者の話に関連して、(自分の声、ことばで)応答すること。
• 他者の話、ダイアローグの触発された、内的対話に耳を傾けることも重要。
• ダイアローグの流れをコントロールしようとしないこと。
• 一つ一つの発話がモノローグ的であっても、それらが傾聴と応答によって、呼応・連続し、緩やかに展開してゆけば良い。
• ファシリテーターをハブ(車輪の中心)として、彼・彼女と一人の参加者の会話を基本形態として、他のメンバーはそのやり取りに耳を傾けるという構造が望ましい。
白木孝二

どれも大切なたしなみである。
 経験専門家(Experts by experience)と称するメンバーが入ってきている場で聞かれることは「理論、スキル、セラピー的なものがあるのはわかるけれども、相手の人が話して、それを聞く。聞くことで起こってくること。そのことでどう感じることの大切さ」を主張される。もっともなことであるが、本当に相手の話すことを聞いているのだろうか?という疑問が起こってきている。

聞くと、話すを分けること Tom Andersen 
• 話す人と聞く人、話す時と聞く時を明確に分ける
• 人が話している時・間は、ひと段落するまでは、口を挟まずに、黙って耳を傾けること
• 人の話を聞くときは、聴くことだけに集中し、他のことをしないこと
• 話を聞きながら、質問、コメントを考えたりしない。聞きながら、解釈、判断、評価をしようとしない
• 参加メンバーは、話を聞く中で内的対話が起こってくる。それを意識することは良いこと。
白木孝二

 クライアントの話を聞くときに、対話の場に集まる人とカウンセラー、心理療法家が聞く技術をみると歴然とした違いがある。
 お互いに良いものがあるから、一緒にやっている良さも認められるけれども、当事者、経験専門家がファシリに入ることにおける危うさが感じられる。

 ファシリテーターは、自分自身の中にある当事者性、痛み、傷つきみたいなものがあって、そこに向かい合わなくてはいけないという自分が常にあると思う。
 それでも、人の話を聞いている時に、自分の抱えているものは脇において聞き切るのがダイアローグにおける聞き方なんだと自分は思っている。
 対話する中で、どうしても自分の経験、葛藤、課題が入ってしまう。それを含めて自分であり、聴き手であるということを意識する必要はある。
自分はそういう話題に触れたらこういうふうにやっている。考えしまうというのを意識することは大切だと感じている。
 それでも、話し手の課題、その人が感じていることは自分の経験とは違うものであるということを忘れてはいけないとも考えている。

 自分のもつものは自分を守ったり、自己を肯定するものだったりする。
 自分の持っているものを支援者にこうして欲しいと話す立ち位置ならまだしも、悩みを抱えている人、今苦痛の中にある人に提示するものではないはず。
 ある意味そのことは、ポジティブなものだったり、自分が駆使しているスキルだったり、思想、哲学、理想、正義感だったりする。それがマインドフルネスだったり、ヨガだったり積極的な思考だったりする。それが自然に出ていることにもっとファシリは敏感になるべきだ。
 それをファシリが垣間見せるがために多様性というもっともらしい解釈が混じることで話し手に起こってきているものが変質してしまうこともある。
さらには傷つく人もいるし、話せなくなる人、話題を変えてしまう人もいる。それでも、自分は傷ついたと言えず、聴いてもらってありがとうございますと言わざるを得なくなる。結果、対話の場から離れてしまうことになる。
 自分の経験、葛藤、課題が大きい人は、話し手として、学びとしての対話の場で話すよりきちんと話を聞いてもらえる場に来て話して欲しいと考えている。

オンラインの対話の場は「対話」というものを簡単にやさしく伝える場、紹介する場としては役に立っている。 
対話の場でやったもん勝ち、自己肯定を求める人、愚痴を聞いてもらいたい人、学びを目的に来ている人とその目的が混在している。
当事者が経験専門家という名目で対話の輪に入って来る。経験専門家としてわかっているなら苦労しないし、少なくとも病気が良くなっている。にもかかわらず苦労している。  
わからない。だからこそ考えて行きましょうということにならない。

 経験専門家ということで言い聞かせて、自分の課題に取り組むことよりも、人の世話に気持ちを持って行ってしまうものがある。今、自分に問題があって、そこを何とかしようということで自分の話をしてしまう。
 確かに何が今、自分の中で問題なのか口にしないとわからない。でも、それは自分が話し手である場ですることであって、ファシリテーターが目の前に相手がいる中で話すことではない。(少なくとも終わってから、意見を聞かれた時に話すべきだろう)

ファシリの自己肯定をするために対話の場を使う。それで病状が悪化した人がある。オープンダイアローグのルールが守られていないのではないか

 少なくともカウンセラー、セラピストは話し手の状態が悪くなるような場づくりはしないものだ。素人の対話の場ではそういうことが起こってくる危険性に対してもっと敏感であって欲しい。リピーターが来ないということはそういうことが起こっていることを察知できないでいる。

 ミラノ派の家族療法では家族とファシリテーターとの会話の中で判断、アセスメントすることもあるけれど、いかに相手の人たちの話を聞いていくことかというところで専門的な知識がありながらも、まず聞く、問いを立てるということを研究した。

 だから話を聞いている途中、リフレクティングで自分はこう思う。自分はこういう経験をしたと話すのは本当にやめて欲しいなと思っている。
 そんな気持ちを対話の場で話しても入っていかない。その人たちが生きていく証、生きがいであるのでそれも仕方がないかと共感しているところもある。
クライアントの経験があるからと言ってファシリテーターになるということは別のことなんだと思う。
 セラピストの学びでは怖いくらいにSVする。それも違うと思うわけだが、そこは人の心に関わるというプロ意識もあるのだと思う。

 ダイアローグの場ではあなたがやっていることに違いますよとは言わない。自分が考えて、自分で発見して、自分の体験の中で変えていく。
 だけど対話の場によって傷つく人、当事者研究で傷つく人達がいるという事実もあることを覚えておきたい。

ダイアローグ・モードと、問題解決モードを分けて考えること。
• ODセラピストにとっては、ダイアローグを続け拡げることが主な役割、課題であり、問題解決、解決構築を目指すことではない。
• 不用意に、無意識的に問題解決、解決構築モードに陥らないこと
• 治療・支援者としてのアイデンティティーが、知らず知らずのうちに、問題解決(理解、診断、アセスメント、見立てを含めて)モードへと向かわせてしまうことがある。
• ダイアローグ・モードに留まり続けるためには、セラピストはこういった自分自身の誘惑に、抗わなければならない。
• 実践的には、ダイアローグ(フェーズ)と、問題解決/判断・決定(フェーズ)とを意識的、物理的(時間、空間、セッティング)に分けることで、二つのモードの干渉、混同をさけることができるかもしれない。
白木孝二

ファシリテーターをする時、何度も読み返したい。

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