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チチカカコ

 本屋に行くと、面白そうな本がわんさと置いてあって興奮する。が、ここにある本を全部読み切る時間はないのか、とか、そもそも全部買うお金ないわ、とか思うと、なかなか絶望的な気分になってくる。

 「チチカカコへ」という、無料で配布されている本紹介の冊子がある。ちくま文芸、中公、角川ソフィア、河出、講談社学術、平凡社の頭文字をとって「チチカカコへ」という、秀逸なタイトル。紹介される本も思わず食指が伸びるものが多い。

 冊子冒頭の「ごあいさつ」にいろいろと書いてある。今回(2021年)のテーマは「教養と生きよう」らしい。

「未曽有の危機においてこそ、教養はその底力を発揮するのです。というのも、すぐに答えの出ない課題に立ち向かうときに、考えるための手がかりを与えてくれるのが、教養だからです。」とある。無論、コロナ禍のことを言っている。

 最近「教養」という言葉をよく目にする。教養ブームである。教養を冠した本も数多く出版されてはいるが、その多くは正直、雑学本と言ったほうがいい。教養があるというのは、知識や経験がその人に根差し、言動すべてに影響を与えている状態、ICUの表現を借りれば、「知識を得る、そのあなた自身が成長し変貌すること」である。教養、いわゆるリベラルアーツは本来、ギリシャ・ローマ時代の「自由七科」に起源を持ち、その意味するところは、人間を自由にする、ということだった。

 大学の話をすると、日本の大学のほとんどは専門細分化で即戦力養成所の様相を呈している。一般教養なんておまけみたいなもので、そもそも18,19歳そこらの青二才に専攻を決めさせるという仕組みである。これでは全く自由になれない。日本の教育機関でリベラルアーツを身につけることはほぼ不可能だから、読書をするか、ネットサーフィンをするか、旅に出るか、なのだろう。最高学府はインターネットと図書館にあり、と言ってもいい。知識が社会に解放された時代の大学の意義というのも考え物だ。そのうち賢い人ほど大学に行かないという時代が来てもおかしくないと思う。

 教養を身につけようと思って、こういう本に手を出すのも悪くないが、身につけようと思って身につくほど安いものではないだろうし、むしろ「身についていた」と気づくものだろう。この冊子の本を全部読んで身につくのは教養ではなく、知識だということは忘れてはいけない。というか、本に御利益を期待するのはそもそもズレてる。

 名ばかりの「教養」が跋扈する。これは「教養」という言葉の濫用である。とにかく教養ばかりが目に付く、教養の大安売り。これでいいのか。

(2021/02/01)


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