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祈り-健全な肉体-

 昔、坊さんが法話で、参拝ではお願いではなく決意を表明するのだと言っていて、なるほどそうだよなと思って、特に願い事もないのでそうしている。だが世の中、あれやこれやと叶いそうもない夢を必死に願う人がいるもので、これは二千年前からそうであるようだ。

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がよく座右の銘として挙げられる。この言葉は元を辿っていけば、古代ローマの詩人ユウェナーリスの“randum est ut sit mens sana in corpore sano”である。直訳すると「健全な精神が健全な肉体にあることが祈られるべきである」となる。これは、人間はあれこれ分不相応な欲望を持つが、願い事をするならもっとつつましく「健全な精神が健全な肉体に宿りますように」とお祈りすべきである、という文脈で登場する。したがって、巷間言われているような、健全な精神は健全な肉体に宿るのだから、肉体の修練に励めという意味ではない。

 それにしても、この言葉の今の使われ方というのは実に無神経ではないだろうか。「健全な精神」とは何なのか。曖昧な、そして時代的な言葉である。それより「健全な肉体」とは何なのだろう。例えば、ヘレン・ケラーは視力と聴力を失い、一時は発話もできなかった。だからと言って彼女が健全な精神を持っていなかったとは言えない。「健全な肉体」とは手足がそろっていて、目や耳が機能して、肉付きがよく、病気にかからない、そういう状態を言うのであろうか。

 では、そんな「健全な肉体」を持たない者は「健全な精神」を持てないのだろうか。そんなはずはない。そんなもの、自称・健全な肉体を持つ者による自惚れに過ぎない。この言葉は、一般法則とは程遠い一事例に過ぎず、ともすれば誰かを排除する論理になる。実際、大正期の思想善導に使われたのだ。

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉には前提がある。それは、五体満足で五感がそろった最低限の「健全な肉体」であること、だ。その最低限の条件を満たさない者たちは実際いるではないか。

 同じように前提が隠されている言葉には、「命あっての物種」がある。これは、最低限度の健康的文化的な生活が保証されたうえで、である。例えば、激痛で失神寸前の状態で300年生きるか、あらゆる望みが叶う50年の人生を生きるか選択せよと言われたら、ほとんどの人は後者を選ぶのではないか。命とはそれ自体が至上の価値をもつのではなく、他の様々な価値を享受するための前提条件である。それゆえ、様々な価値を尊重するために生命を尊重しなければならないのである。

 だが今は(も?)、その生命がそもそもないがしろにされ、また一方で尊重しようとすることでむしろ生命の尊重を妨げることが行われている。
ウクライナで戦争が始まったとき、ウクライナは降伏すべきと唱えた人たちがいた。そうすれば命は助かると。だが、降伏すれば平和が訪れるというのは歴史の事実に反するのではないか。私は「幸福な降伏論」という言葉を思いついた。

 私たちはまた、かつてないほど「健康」でいることを強いられている。生活を犠牲にしてでも命を守ろうとし、病にかかった自分を責め、迷惑を詫びた。それは、命が天地父母から授けられたものであり、これを毀傷せずに守ることが孝行であると説く『養生訓』に始まる儒教的教義の「養生」と地続きである。その「養生」は個人の生き方の追求よりも、社会制度のなかでの個人の役割を明確にして、それを徳目として示し、個人の健康が天下泰平に資すると説く。この思想は、発展する科学・医療技術によってますます強化されていったように思う。

 技術は世界を変えるよりも前に、まず私たち自身を変える。次々と繰り出される技術と知識。それらを巻き込みながら怒涛のように押し寄せる言葉。
それらを前に目を回しながら、「自分を変えなければ」と焦る人々。
変わる必要はあるのか。
遥か高みの理想から自分を見下ろし嘆く。
高きから低きを見ているのだから惨めなのは当たり前である。
分不相応な願いと悩みを抱えて生きる人のなんと多いこと。
身の丈に合わない悩みなどあるものか。

下劣極まりない祈願を神々に囁きながら、誰かが耳をそばだてると黙り込む人間の愚について、セネカはこんな言葉を遺した。

あたかも神が見ているごとくに人間とともに生きよ。あたかも人間が聞いているがごとくに神と語れ

『道徳書簡集』「第10 自分自身で生きることについて」

(2023/01/06)

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