おしゃべり16の補足:もっと他愛ないハナシ(その38)

いきなり「おしゃべり16」の続きを書いてしまうんだけど、「構え」といっても「心構え」みたいなもののことを言っているつもりでは、なかったんです。

「構え」なんて言っちゃうと、意識してコントロールできることのように思われてしまうんだけど、僕は「構え」と思いつつも、それは自分で意識してどうにかできるようなものではない、ということも同時に思っていたんでした。

記号とか出来事に対して、主体――だいたい「わたし」――がどんな風に反応できるか。その反応の仕方っていうのは、主体の構えがどうだったかっていうことに、影響を受けるというか、それそのものだ、と。

主体の構えと、記号や出来事との衝突が、主体が生み出すことのできる何か、そのものである。

っていうことになるんだけど、これって何を言っているか分かるように書けているのかなぁ?

まず、「構え」がコントロールできないってどういうことかっていうと、「私とは何か」っていうのは、ただ「私って何だろう?」って考えてみたって分かることじゃない、っていうことと同じ話です(というわけで、先週の話とも繋がりました)。

自分がどういう「構え」をしているのか気がつくのは、主体(わたし)が記号や出来事と出くわしたときに何か起こって、その何かが起こった後で(事後的に)、「あ、自分はこんな風な構えで居たのだなぁ」って気がつくかもしれない、っていうようなことで。で、それは、起こってみないと、分からない。

起こらないと分からないということは、もし、それが起こるような記号や出来事と接触するという機会がなかったら、「構え」はあるのにそれが発動する機会がないうちに人生を終えて、結局その「構え」って、あったのかなかったのか検証のしようがない、なんていうこともありうるようなもの、ということです。

プルーストが、「かくて、私たちが生きてきた時間のうちには、絶対に蘇らないものがあるはずだ」と書いたときに考えていたことって、このことだっていう気がするんです。

僕はこの文脈では「構え」なんていう言い方をしているけど、つまり、「主体(わたし)のうちにある何か」のことです。そしてそれが、意識の表層に浮かび上がってくるか、一生一度も浮かび上がってこないかは、それはもう運みたいなものだ、っていうことです。

僕がいま考えていることって、絶対プルーストも考えていたことに違いないって、まあ、僕は思ってます。プルーストはこういうことのことを指して「心情の間歇」って書いたんだろうって、僕は思ってます。

ベンヤミンやドゥルーズの話は、またいずれ。

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