ラカン派精神分析から文学の話:もっと他愛ないハナシ(その36)
はじめに
ちくま文庫で出ているのを見つけて、たぶんすぐに買ったんだけど、しばらく読まずに寝かせていて、最近ふと手に取って読みはじめたら、ものすごく面白かったのでした。
ある本が面白く感じられるか面白く感じられないかっていうのは、その本の問題じゃなくて、その本と私の関係の問題だっていうのが、僕の持論なんです。
だから、面白いと思った本を紹介しようと思うと、その本についての客観情報を伝えるんじゃなくて、「その本の何が私の中の何とどんな関係にあるのか」ということを伝えないといけないんじゃないかな、と僕はつねづね思うんです。
ただそうすると、本の話というより私の話になってしまって、「そんなの誰が読みたいの?」と感じるので、まあたいてい黙ってるんです。今回それでも何か書いておこうと思ったのは、このことを伝えたい人の顔が二、三思い浮かんだからです。
精神分析=文学
この本は、ラカンの精神分析がどういうものか、解説している本です。
僕がそれを読んでいて何を面白いと感じていたかっていうと、僕がつねづね考えていることと精神分析というのが、似ている、と思ったからです。
僕がつねづね考えていることっていうのは、「文学っていうのはどういうものかなぁ?」ということです。
そして、「文学ってこういうものなんじゃないのかなぁ?」という仮説のようなものを持ってます。
この本は、「ラカンの精神分析っていうのはこういうものだよ」っていうことが書いてあります。
つまり、似ているのは、「文学」と「ラカンの精神分析」です。すぐ上の文を書き換えると、この本は「文学(=ラカンの精神分析)っていうのはこういうものだよ」と書いてあるように読める、という話です。
この後、精神分析がどういうものかを書いてみるんですけど、僕はこういうことを読みながらほとんど文学のことを考えていた、ということをあらかじめ書いておきます。
精神分析の方法の話
精神分析っていうのは、一応、患者さんがいて、精神分析をやる人がいて、目的としては患者さんの治療、ということになります。
精神分析では、患者さんのことは「分析主体」なんていう風に呼びます。先生の方は「分析家」なんて呼ばれます。
分析主体を分析家が精神分析する、というわけです。
(※分析主体が分析家と精神分析する、と言った方が正確かもしれないです。分析家に分析されるというより、分析家の力を借りて分析主体が自分自身を分析する、というようなものみたいです。)
精神分析の治療方法っていうのはただ一つ。自由連想っていう方法です。
自由連想っていうのは、分析主体が頭に思い浮かぶことを可能な限り一切自分で検閲することなく話し続ける、っていうことです。
分析家は、分析主体の自由連想を、ただただ聞き続けます。
そして、そうすることによって何が目指されているか、です。
そこに出てくるのが〈特異性(特異的なもの)〉という概念と、〈一般的なもの〉という概念です。
自由連想を通して目指されているのは、分析主体が〈特異性〉に触れることです。つまり、自由連想中に分析主体が自分の〈特異的なもの〉の話をするようになることが目指されている、ということです。
なぜそれが目指されているかというと、分析主体は〈特異性〉に触れることによって、しばしば症状が軽くなるからです。つまり、〈特異性〉に触れることが治療になる、というわけです。
〈特異性〉は目指されるくらいで、そんなに簡単には出て来ないのか、出ていたとしても気づかれないのか、まあそういうようなものです。なかなか「〈特異性〉に触れたな!」って実感できないようなものみたいです。
つまり分析主体は、自由連想でいくら話してもたいてい〈一般的なもの〉にしか触れない、そういう話しかしない、というようなものらしいんです。
〈一般的なもの〉っていうのは何かっていうと、たいていみんなが理解できるようなこととか、たいていみんなが共感できるようなこと、のことです。理解も共感も「分かる」ということだとしたら、人はたいてい「分かる」話しかしない、ということです。
〈特異性(特異的なもの)〉は、その反対です。みんなと共有できないような部分のことです。理解されないし共感されない、というようなもののことです。
精神分析は〈一般的なもの〉を目指しているんじゃなくて、〈特異性〉が目指されていて、そしてそれが治療になる、という話なんです。
これが僕にとっては、「ほとんど文学の話じゃないか」って思うわけなんですが、分かっていただけるでしょうか?
僕にとって文学とは何かという話
僕は文学をどういうものだと思っていたかという話をします。
僕は、語りうること・書きうることには、〈私的なこと〉と〈公共的なこと〉があると思っていて、〈公共的なこと〉について何か言ったり書いたりするのは文学の仕事じゃないんだって、いつかどこかで書いてもいました。
つまり、〈私的なこと〉の方に関わるのが文学だと思っているのでした。
でも、〈私的なこと〉って何なのかっていうのは、これがけっこう難しい。まず言えることは、「わたくしごと」を書いても、それはぜんぜん僕が考えるところの〈私的なこと〉にはぜんぜんならなくて、「わたくしごと」もたいてい〈公共的なこと〉でしかないんです。
僕は〈私的なこと〉に関わるのが文学だと思っていたので、ずっと考えていたのは「〈私的なこと〉っていうのはどうやって語ればいいんだろう?」ということでした。
こういうようなことを考えていた僕が、ラカンの精神分析のことを読んだ時に、何と何が繋がったかっていうと、もう言うまでもないと思うんですけど、僕が〈公共的なこと〉って考えていたことは精神分析的には〈一般的なもの〉で、僕が〈私的なこと〉って呼ぶのはまさに、精神分析的には〈特異性〉にあたるものだ、ということです。
分析主体が精神分析を通じて〈特異性〉に触れるっていうのは、文学を生み出すっていうことと、そうとう似たことなんじゃないかなと思いました。
おわりに
ここまでのことは、この本(『ゼロから始めるジャック・ラカン』)の2章までに書いてあったことでした。
そこまで読んだだけで、うえに書いたような事情で、すごく面白かったんでした。
この本は全7章あって、この後はもうちょっと理論的な話になっていって、まあまあ難しいところもあるんですけど、終始面白かったです。
僕はかなり牽強付会的に読んでむりやり面白がっているようなところもあったんですけど、ふだん文学のことなんかぜんぜん考えないよ、という人でも、「自分はなんでこんな風なんだろう?」みたいな悩みを抱えているような人であれば、示唆に富んだ部分がきっとあると思います。
終章は感動的でもあるし。
けっこうおすすめです。
おしまい。
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