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駄弁15の補足のようなもの:もっと他愛ないハナシ(その37)

日曜日の駄弁15週目で、「〈私〉っていうのはどこに(どのようにして)あるのか。」という話を、始めようとして始まってない、というような文章を書いたんでした。

〈私〉っていうのはどこに(どのようにして)あるのか。

という問いが、僕にとって、いくらか意味があるのはナゼなのか。っていうことを、できるだけ「分かりにくく」書いてみようと思います。

どうして「分かりにくく」書くのかっていうと、誤解する(される)よりは分からない方が、いくらかマシだろうと思うからです。

プルーストの『失われた時を求めて』ってどういう小説だったかっていうと、「一つの〈私〉を立てる(〈私〉についての)」小説だったんだと、僕は思います。

たとえば僕が、あなたの目の前で「わたしっていうのはどこにどのようにしてあるんだろう?」ってたずねるとします。そのときあなたは「きみはそこに座って居るよ」って言うとします(僕は座ってたみたいです)。

このやりとりが、コミュニケーションとしてうまく成立したものだとします。

そうだとすると、ここで言われた「わたし」とか「きみ」っていうのは、僕のことを指していて、お互いそう思っているので、コミュニケーションはうまくいきました。オッケーです。

プルーストは『失われ時を求めて』を書く前に、「サント゠ブーヴに反論する」という評論のような文章を書いてました。

サント゠ブーヴっていうのは、プルーストが生まれる直前に亡くなった、プルーストから見ると一世代昔の大変偉い文学の批評家です。

プルーストはサント゠ブーヴの文学批評の「ある方法」を厳しく批判するんです。

サント゠ブーヴという人は、文学の中に現れる人間を、「わたし」とか「きみ」のこととしか考えていなかったんです。

プルーストは、小説家が書くのは「わたし」じゃなくって、〈私〉なのに、サント゠ブーヴはそのことをまったく分かってない。ということを、言うんです。

『失われた時を求めて』っていうのは、語り手の一人称小説なんですけど、あの語り手って「わたし」じゃなくて〈私〉なんだと、僕は思っているんです。

つまり〈私〉っていうのは、「わたし」じゃないんです。これがポイントです。

『失われた時を求めて』を、なんの前情報も入れずに読みはじめたときに、しばらくして気がつくこととして、「この語り手の名前が分からない!」ということが、一つあると思うんです。

語り手本人は一向に自分の名前を名乗らないし、他の登場人物から名前を呼ばれることもないんです。だから、どんなに読みすすめても、いつになっても「こいつ名前なんやねん」っていう状態で読んでいくことになるんです。

ぼんやりと小説を書いたら、ふつうこんなことにはならないと思うんです。だからプルーストは明らかに、わざとそうしたんです。語り手を無名な存在に、と。

なんでそんなことをしたのかっていうと――僕の考えでは――プルーストが書きたかったのは「わたし」ではなくて〈私〉だったから、ということです。

プルーストは生涯に長編小説、つまりフランス語で言うところのロマンというものを、ただ一つしか書いてないんです。それが『失われた時を求めて』なんですけど、『失われた時を求めて』の前身であるかのような小説の草稿というのを残してます。

それは『ジャン・サントゥイユ』っていうんですけど、じゅうぶん長編小説といえるくらいの長さのものです。青年期に、ずっとこの小説に取り組んでたんですけど、結局書き上げられなかったんです。

この小説はジャン君が主人公の三人称小説なんです。出てくるエピソードとか、うかがえる文学観なんかも、もうかなり『失われた時を求めて』なんです。でもこの小説は書き上がらなかった。

僕の考えでは、『ジャン・サントゥイユ』はまだ「わたし」についての小説なんです。日本の近代小説に似たものを探すとしたら、「私小説(あるいは心境小説)」みたいなもので。

プルーストは、「「わたし」の小説を書く」から「〈私〉の小説を書く」へと変わったことで、やっと『失われた時を求めて』が書けたんだと、僕は思っているんです。

そのくらい「わたし」と〈私〉の違いっていうのは――僕の考えでは――大きいことなんです。

そんなに言うところの「〈私〉」っていうのは、なんのことなんですか?

っていう話なんですけどね。

こんな話、僕以外の誰が興味あるんだろう。

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