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一意専念から始まるヨーガ

心素(チッタ)の状態について

■はじめに

今回から専門用語が出てきて、聞き慣れない用語がありますがヨーガを知る上ではとても重要なことになります。

ちなみに、画像は『ヨーガ・スートラ』の著者だとされるパタンジャリの像となります。

■『ヨーガ・スートラ』をヴィヤーサが解説すると

以前に『ヨーガ・スートラ』のシャンカラ注解をご紹介しましたが、今回はヴィヤーサの注解について、触れてみたいと思います。このヴィヤーサは、5~6世紀の人物となり、インド神話の伝説的なリシ(聖仙)で叙事詩『マハーバーラタ』の著者とされている人物とは違います。

ヨーガとは三昧(サマディ)である。それはまた、あらゆる状態(段階)を通じて存在する心素(チッタ)の性質(法・ダルマ)である。

この心素の状態とは、動揺した状態と、無感覚でぼーっとした状態と、錯乱した状態と、専念した状態と、働きが抑制され止滅した状態(という五つ)である。

『ヨーガ・スートラ』ヴィヤーサ注解より引用

このヴィヤーサ注解は、パタンジャリが著した『ヨーガ・スートラ』第一章第一節の「これよりヨーガの解説をしよう」に対して注解しているものとなります。

ヴィヤーサ注解によるこれら5つのうちで、最初の2つの動揺した状態と無感覚でぼーっとした状態はヨーガとは無関係な状態であり、さらに、心素が錯乱しているしている場合には、錯乱に従属させられている三昧(サマディ)はヨーガと呼ばれる部類には入らないと考えられています。

心素が専念した状態について、例えば、アーサナ(体操)やプラーナヤーマ(呼吸法)そして瞑想(熟考)によって、アーサナは肉体の反応に集中・プラーナヤーマは気の働きに集中・瞑想においては熟考する課題に集中するなどして心素が専念した状態を訓練することができます

 これらの訓練は、真に実在する真我(アートマン)が観るものとして観られる対象を照らし出し、もろもろの煩悩(無智なる心の働き)を消滅させ、欲望に結びついた行為(カルマ)の束縛を解き、心素のすべての働きを止滅させようとする時には、心が対象の意識を有しているとするサムプラジナータ(有想)三昧と呼ばれていると解説されています。

 したがって、まずは、アーサナ、プラーナヤーマ、瞑想を手段として、動揺した状態でも無感覚でぼーっとした状態でも錯乱した状態でもない専念した状態を、つまり、そのような心素の働きを身につけることから始めることとなります。そして、心素のすべての働きが止滅した場合には、心の対象に関する意識を有しないアサムプラジナータ(無想)三昧が現れることとなるとも言われています。

『ヨーガ・スートラ』では、さまざまな三昧について述べられているのですが、第一節の注解でさらりと三昧について解説されています。

最後に

ヨーガの技術として、なぜ、アーサナやプラーナヤーマがあるのかをわからないままにしていても、ある程度の心や身体の健康は向上します。しかし、心素の状態を最終的には止滅させる道具となることを知りながら行うのは雲泥の差となります。

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