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瞑想の目的はマインドフルネス?

まずはじめに

『ブラフマ・スートラ』という名称からして、どこからどこまでも「絶対者ブラーフマン」についての記述になるのですが

今回は、瞑想の対象は何か?について、つまり、瞑想の目的は何か?ということが主なテーマとなります。

万所として知られる存在者

■父を訪ねて三千里?

『母を訪ねて三千里』というアニメをご存じでしょうか?

イタリアの港町ジェノバに住む少年マルコは、両親と鉄道学校に通う兄とともに慎ましく暮らしていたが、生活は日増しに苦しくなり、とうとう母がアルゼンチンへと出稼ぎに行くことになる。

寂しさをこらえ見送るマルコだったが、やがて母アンナからの便りが途絶えてしまう。母を捜しに行きたいというマルコの固い決意に父もとうとう旅立ちを許し、マルコの長く苦しい旅が始まるのだった。

マルコは持ち前の明るく元気な性格でアルゼンチンでの様々な人との出会いや出来事を乗り越え、ついにトゥクマンの町で母アンナと再会するという涙なくては見られない昭和の名作と言えるお話しです。

なぜ、私たちはこのストーリーに涙を流すのでしょうか?

私が想うのに、私たちも同じように絶対者ブラーフマンという創造者である父から離れてしまっていて、父恋しいながらも離れてがんばってこの厳しい世界で歯を食いしばっているからだと。

ですので、いわば、「父を訪ねて三千里」だと名付けたわけです。

■瞑想の対象は?

日本ヨーガ療法学会主催にて、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外にあるトラウマセンターを設立したベッセル・A・ヴァン・デア・コークさんの講演に参加した時

当時は、ジョン・カバット・ジンさんによるマインドフルネス瞑想法がヨーガ業界で流行始めた頃で、コークさんにマインドフルネスについて質問している人がいました。

コークさんは、日本の文化には、書道や茶道など多くのものに既にマインドフルネスとは何かを体感する道があるのですから、わざわざ、アメリカに来て日本人の方々は学びに来る必要はないですよと、苦笑していました。

それでは、『ブラフマ・スートラ』では、何を瞑想の対象にと教えているのでしょうか?

〈表題1 万所として知られる存在者〉
(絶対者ブラーフマンは瞑想の対象なのである、)それというのも、万所(聖典)にあって(世界の原因であると)知られ(ている絶対者ブラーフマンが諸ウパニシャッド中に)て解説されているからである。

『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章

この世のすべては他でもない絶対者ブラーフマンである。なぜならば、このすべては絶対者ブラーフマンから生じてきているからであり、絶対者ブラーフマンの中に没入していくからであり、絶対者ブラーフマンによって支えられているからである。

(この事実について人はその)心を静めて瞑想(ウパサナ)を施さねばならない。

ところで、人間というものはその人物の決意によって作られるのである。この世を去った後にあっても、その人物は現に今ここで、その心に思っていた内容の通りになるのである。

だからこそ、人は決意を新たにしなければならない。その人物が自分を自らの意思と同一視していれば、その人物の体は微細体(プラーナ)になり、その形は智慧の光(理智)になる。

『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』第三篇第十四章第一節~第二節

『ブラフマ・スートラ』に述べられていることはすべて『ウパニシャッド』に記載してあるから間違いはない、という論法なのですが

その『ウパニシャッド』においては、ヨーギという行者が絶対者ブラーフマンに近づくことを目的として、その聖典が書かれているので、当然と言えばそうの通りなのですが、瞑想の対象は絶対者ブラーフマンになります。

すなわち、先ほど、触れた「父を訪ねて三千里」になるというのは、こういうことなのです。ですので、マインドフルネスという心の状態は、その道すがらにおいて、体験することですが、目的は、絶対者ブラーフマンだと『ブラフマ・スートラ』は教えています。

『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』に述べられている「絶対者ブラーフマンの中に没入していく」ということを読んで、どのみち没入するのならばわざわざ心を静めて瞑想を施さなくても、と考える方もいらっしゃるかもしれませんね。でもどうでしょう、たまたま、宝くじに当たった人の人生のように再び「父を訪ねて三千里」を再放送することになりそうですが、これは、「人物は現に今ここで、その心に思っていた内容の通りになる」ということから想像するに難しくはなさそうです。

また、「絶対者ブラーフマンの中に没入していく」という体験は、「誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にてお話ししたように、すっかりと忘れ去ってはいても熟眠時には還っているのですが、そのことを常態化するために行者は瞑想をするとも言えます。

そして、「絶対者ブラーフマンによって支えられている」ことを仮説として受け入れて、その仮説を実証実験するために心を静めて瞑想する。その瞑想の中において、何かしらの気づきを得る。その気づきを普段の生活の中で採用してみる。その繰り返しによって、その実証実験による結果が出ることでやっぱりこうだったなとか支えられていることを見出していく。その積み重ねによって、瞑想という実証実験を繰り返しながら神様の元に近づいていき、最終的には没入するんだということに落ち着いていく感じです。

このnoteを読み進めていくと、どちらかと言えば、この絶対者ブラーフマンを実証実験する道は文系よりも理系向きかと思われるかもしれません。実証実験でもあるので、観察対象と観察者が鍵になります。究極的には、観察対象は絶対者ブラーフマンであり、観察者は絶対者ブラーフマンを原因とした結果であるアートマン(真我)だということに、『ブラフマ・スートラ』は理論づけています。

それまでは、実験を繰り返して観察を繰り返して観察した結果について考えを繰り返して、考えてもよくわからない期間がかなり長く続きますが、それでも、実験を繰り返して観察を繰り返して観察した結果について考えを繰り返すことになります。にっちもさっちもいかないようなままならない時こそ忍耐強く続けていると、ある時、ハッと内からひらめくことがあったりします。

「人間というものはその人物の決意によって作られる」とありますが、私たち人間は、そのうちにある心根によって作られてしまうと、つまり、自らの決意によってどのような人生を歩むことになるのかが決まってしまうということになります。

このことは、たとえば、輪廻転生があるとして、この世を去った瞬間にあって、そのときの心に思っていた内容の通りに次の生において人生が作られてしまうということです。

「だからこそ、私たちは、決意を新たにしなければならない」とあり、続いて、「その人物が自分を自らの意思と同一視していれば、その人物の体は微細体(プラーナ)になり、その形は智慧の光(理智)になる」と述べられているのを解説すると、自らの意思(マナス)という内的心理器官が私であるというアハムカーラ(我執)が結びついている、つまり、真我ではなく個我であるということから、個我ではなくて真我である認識へと決意を新たにすることで、「その人物の体は微細体(プラーナ)になり、その形は智慧の光(理智)になる」ということであり、そのための技術がヨーガになります。

ですので、せめて、死に際の心の状態が、今際の際において、「こんな人生を送るはずじゃなかったのに」とか「○×のせいでこうなったのだから恨んでやる」という心根であれば、その決意によって次の生が作られることになるわけですので、「ありがとう」や「○×さんのお陰でいい人生を送れた」などのような感謝の気持ちで逝きたいものです。

今際の際でとつぜんに、恨め節から感謝へと変わることはまずあり得ないので、普段からの心根がどのようなものであるのかをまずは対象として観察し決意を新たにする訓練から始めてみるのもオススメです。

最後に

次回は、アートマン(真我)はどこにあるのか?について、『ブラフマ・スートラ』を引用して考えてみる予定です。この問いは、私が初めて先生に出会って質疑応答の機会で質問したことになります。

この時、先生は、今すぐに答えられるけど、ご自分で突き止めたいでしょう?とおっしゃったのが昨日のことのように鮮明に記憶にあります。

読まれる方々にとっては、いわば、ネタバレになるのですが、しかし、文章を読んでもそこに到達しないのでご安心ください。いつか、そうなのか!と感動しながらここで読んだことを思い出すことでしょう。

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