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ひとつの命はすべての命

まずはじめに

前回のマガジンでは、「保守本流のヨーガ」にて、主に、ヴェーダンダ哲学という智慧をどのようにしてヨーガという技術に活かしていくのかをごく簡単に述べてみました。

今回は、インド思想の中で非常に大きな位置を占めるヴェーダンダの考え方について、特に、今から約1500年前にヴェーダンタの思想を再興した初代シャンカラという非常に有名な行者さんを中心にして、今回もごく簡単に、マガジンとして、まとめて述べてみようと想います。

ヴェーダンタ哲学について

■三つの大きな経典

ヴェーダンタ哲学には、三つの大きな経典があります。この中で最も古いのがヴェーダ聖典の最後に属しているウパニシャッド聖典群となります。

その後に続くのは、バガヴァッド・ギーターになります。これは、ヴェーダンタの思想を平易な言葉にて一般の人たちに分かりやすく伝えている聖典と呼ばれています。マハーバーラータの大叙事詩に、ヴェーダンタ哲学を物語としてくみ入れられるほどに、ヴェーダンタの思想がインドの非常に多くの人たちに受け入れられていました。

そして、最後のトリとなりますのが、ブラフマ・スートラとなり、シャンカラの注釈を通して伝統的にヨーガ行者に読まれることになっています。

■天啓聖典・聖伝聖典・論理聖典

伝統的にヨーガ行者に読まれている聖典を三つに分類することができます。天啓聖典(Sruti Prathana)と聖伝聖典(Smuruti Prathana)と論理聖典(Nyaya Prathana)というのが、インドにおいての聖典群の分類になっています。

天啓聖典は、読んで時の如く、聖仙と呼ばれる聖者たちが神様の啓示を受けて書きあらわしたものとなります。したがって、Sruti (シュルティ)に述べられていることは、インドの現在の精神世界において、絶対的な権威が与えられていて、ヴェーダ聖典に書かれてあることやウパニシャッド聖典群の教えは、一時期においてヒマラヤの行者さんたちだけのものの時期になってはいましたが、現在では、世界的に読まれるようになっています。

天啓聖典だけでは分かりづらいということで、天啓聖典をもう少し分かりやすくした形としての聖伝聖典として、バガヴァッド・ギーターやマヌ法典があります。特に、バガヴァッド・ギーターの他に物語としてマハーバーラータの大叙事詩に含まれるヴィヤーダ・ギーター(肉屋の詩)は、有名な話ですので機会をみて述べてみたいと思っています。

天啓聖典や聖伝聖典だけでは、まだ、物足りないというインドの人たちの論理的な思考が作らせしめたのが論理聖典となります。この論理聖典の中に、これから紐解こうとしているブラフマ・スートラがあります。パンチャダシィも論理聖典に含まれていると言われています。

現代においてのヴェーダンタ哲学の意味

この現代社会において、ヴェーダンタ哲学の意味について考えてみたいと思います。

ヴェーダンタ哲学とは、この世の中というものを、すべてにおいて、絶対者ブラーフマンという根本存在が支えているという哲学になります。すなわち、私たちのすべてのひとり一人のスピリットの出自が絶対者ブラーフマンとなるという、極めてスピリチュアルな哲学だと言えます。

これから述べることは、なかなかに受け入れられないかもしれませんが、この世の中に神様(絶対者ブラーフマン)以外のものは真に存在しないという考え方になります。私たちが知覚している見ているものから始まって、心(心理器官)のすべては一時のまやかしであるという考え方になっています。

この考え方が私たちが生きている現代社会においての意義ということですが、たとえば、現在の教育問題において、親が世の中の移り変わりによる価値観の変化や移り変わるものや移り変わらざるを得ないものに、その都度、親の心が奪われるようなことになっているとします。

この状態は、砂漠の中で、蜃気楼の水を追い求める旅人と同じになっていると言えるのではないでしょうか?

と言いますのは、一生手に入らないもの、もしくは、決して満足することがないものを追い求めて、あっという間に、人生百年ほどが過ぎ去ってしまうことにならざるを得ないとしたら、これは蜃気楼を求めて人生をさまようことになるという考え方が、ヴェーダンタ哲学になります。

人生のすべての時間で、蜃気楼を求めてさまようならば、人生の実という結果が生じない、つまり、実が実らない時間を過ごすほどにみじめなことはないと言えます。

そうではなく、私たちを支える絶対的な存在がいるのならば、その土台に行き着くという考え方なしでは、私たちの人生を安定化させる、そして、揺るぎないものにさせることでの、確固たる信念を変わりゆく蜃気楼に据え置くことはできかねるとも言えます。

いろいろな童話としての形で、花から花へとその花の甘い蜜を求め続けながら、蝶や昆虫たちが飛んでいるけれども、ある時にフッと気づいたら、もう人生が終わっていたという生き方とは違う、もしくは、そんな生き方を超える絶対的なものと一体化するような境地に至るという生き方を、支える考え方がヴェーダンタ哲学となります。

この世の中の全体的な流れからして、たとえば、先ほどと重なりますが、変わりゆくような政治・経済や社会そして気候の状態というものを、変動が極めて激しい現代の中で、私たちがどのようにしてそのまっただ中を生き抜いてゆくかという時に

ただただ行き当たりばったりだとか、そのときに応じた巧妙な生き方ということだけではない、確固不動なる信念を心に抱いてこの世の中を生きていきたいという人物にとって、まさに確固不動たる存在をどこに求めるのか?という時にこそ

このヴェーダンタ哲学が提供するものを私たちが見出し日々の生活において活かすならば、重要な支えになるものだと思います。

ヴェーダンタの思想について

■海の喩え

たとえば、どこかの国の海が汚染されるならば、それは、ひいては全世界の海が汚染され、海の生き物が汚染されるならば、その生き物を口にする私たち人間や動物やすべてが汚染される、というような一蓮托生の考え方が、ヴェーダンタの思想の中で常に繰り返し説かれています。

■ひとつの命はすべての命

すべてがみんな共通のものを持っているという考えがヴェーダンタの思想にあります。

たとえば、ひとりの人間の命というのはとてもかけがえのないものである、ということがよく言われたりしています。なぜ、かけがえのないものかということをヴェーダンタの思想に当てはめますと、ひとりの人間の命というものが全員の命だからだと考えるからです。

これは、先ほどの環境汚染の時と同じ思想となり、ひとりの人間の命、ひとつの昆虫の命、ひとつの海の魚の命、というのは全生物の命であるとする考え方になります。

そこで、向こう側の国が汚染されても自分たちの国は大丈夫というような核実験が行われていたような時代を考える時、それがいかに全員の命を脅かしていたかというのが分かりますし、すなわち、すべては一蓮托生でつながっているということになります。

ですので、このヴェーダンタの思想をもってして、科学の暴走や世の中の暴走とかを食い止められる可能性があるとも言えます。

最後に

今回は、ごく簡単に、ヴェーダンダ哲学における聖典やヴェーダンタの思想について、述べるにとどめておきました。

次回からは、ヴェーダンダ哲学の聖典を引用しての解説を試みたいと思っています。


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