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汝自身を知れ以外に求めるものは無いのだが...

まずはじめに

古代ギリシアの賢人の中で「汝自身を知れ」という格言がありますが、作者が誰であるのかは定かではないらしい。

意味としては、自分自身を理解するということは結局のところ他者をも理解するということであるから、この「汝自身を知れ」という格言は人間の行為・道徳・思考を理解するという理念を表すものと拡大解釈されることがあるとのこと。

ヴェーダーンタ哲学において、真の意味では汝自身とはアートマンつまり真我を指し、無知蒙昧にまみれて識別智を失っている個我ではない。

そこで、今回は、ごく短く簡略化して、「汝自身を知れ」を「個我」と「真我」について知ることと、その識別智からどのようにして個我と世界と関わるのかについて論じてみたいと思います。

個我を知る

「個我を知る」と題してみたが、心理学の分野において、さまざまなアプローチがあるので、その全体像をここでは省略します。たとえば、自我状態を分析する交流分析が有名かも知れないし、他にも数え切れないほどあるでしょう。

今自分を取り巻く世界の中での立ち位置として、どこで生まれてどこに住んでいるのか、誰から生まれて誰と生活を過ごしているのか、生業は何かなどなど…

取り巻く世界においての役割の中で個我は形成されているとしていますが、そんな中でも誰もが自分自身を探しています。知ってか知らずか、自分が失ってしまったと思い込んでいる「力」と「栄光」をこの世界を通して探しています。いわゆる自分探しの旅でしょうか?

しかし、「それ」をあなただけの中に見つけようとして、自分だけを、つまり、個我(自我)だけを見ているとしたら、自分自身を「それ」として見つけることはできない。

なぜなら、個我としてのあなたは、あなた自身だと信じているあなただけの中に「それ」つまり「光」と「栄光」を見つけようとするからです。

なぜなら、あなた自身だと信じているあなた、つまり、個我とは、本来のあなたではないからなのです。

別の言い方をすると、「光」と「栄光」を拒否したあなたは真我ではないとも言えます。「光」と「栄光」を拒否したあなたは、どのようにしてもどこを探しても見つけることはできません。

真我を知る

そこで、真の自己である「真我を知る」ことが大切になります。

意外なことかも知れませんが、これは思いの外、簡単です。難しいのは真我を知ったまま生活することだと言えるからです。

ただし、自分ひとりで到達するにはかなり難しいので、かなり優秀な先生を見つけてください。

瞑想の中で「真我を知る」ことは可能です。

真我から個我と世界を観る

しかしながら、どのようにして瞑想の中で「真我を知る」のかについては、人それぞれ異なると思うので、簡単には書けませんので、真我を知った後のことについて論じてみます。

自分が失ってしまったと思い込んでいる「力」と「栄光」は、誰かと共にいる時は、いつでも、どこでも、私たちは「それ」を見つける新たな機会を手にしているとしたらどうでしょうか?

あなたの「力」と「栄光」は、目の前の彼もしくは彼女の中にあり、「それ」はあなたのものであるからこそ見て知ることができるとしたらどうでしょうか?

最後に

「真我を知る」ということについては、今後も言及することはできませんが、しかし、一度でも真我を知った後にそこからどのように進む道があるのかについてはいくつか言及することができますので、時間を見つけてお伝えさせていただきます。

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