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ヨーガにおいての診断・原因・健康状態・治療法とは何か?

まずはじめに

以前にもお話しさせていただいた通り、ヨーガの思考法として、ウパニシャッドという奥義書によれば、シュラヴァナ・マナナ・ニディディーヤーサナといわれる、聴聞して熟考して深い瞑想を繰り返すことで、ついには、ギヤーナという智慧に至ると言われています。

現代科学の手法としては、その手段として、仮説を立てて実験しそれを検証して法則化または普遍化することであるならば、実験しなければ絵に描いた餅を食べることができないのと同じように、身体や心の働き含めた外の世界の動きを流れて過ぎ去る雲のように離れて観察する内なる眼が必須です。

そして、その内なる眼つまり心の眼を、育てて高めることによって、欲望のままに動く動物的な人間から自分のことしか考えられない人間、ちょっとわがままな人間へ、そして、ごく普通の人間へと、また、偉大な人と密かに評価されるような偉人へと、人間を越えたような超人へと、最終的には、神様が人に現れたような人へとアヴァタラ(化神)するような人間成長の技術が保守本流のヨーガと言えます。

ヨーガ・スートラをシャンカラが注解

🔳ヨーガ・スートラについて

詳しいことは省きますが、『ヨーガ・スートラ』は、パタンジャリがヨーガを実習する人たちのために編纂してまとめたテキストとされています。しかし、読んでも正直わかりません。古来のインドにおいては、文字化することがなく、もっぱら、口伝であり、文字化したとしてもヨーガ行者が暗記できるように短い節のものとなっています。

伝統的な教授法において、『ヨーガ・スートラ』を解説するということはなく、弟子は読んでわからないことは師に尋ねるというスタイルです。しかし、この『ヨーガ・スートラ』を注解している偉大な賢者がおられたのです。

🔳初代シャンカラについて

初代シャンカラは、ヴェーダーンタ哲学の不二一元論の立場を確立したインド最大の哲学者として知られ、シャンカラが設立した僧院は4つに分かれ、その法主の座は、現在は「シャンカラ・アーチャーリヤの座」と呼ばれ、ヴェーダーンタを体得した人でないとその座につけないので、空座になることも多いとのことです。シャンカラ・アーチャーリヤ(アーチャーリヤは「先生」の意)は直訳すると「シャンカラ(の)先生」となり、初代のシャンカラを表すときにはアーディ(「初代」の意)をつけて区別する。

🔳ヨーガ・スートラをシャンカラが注解すると

下記に『ヨーガ・スートラ』第1章第一節「これより、ヨーガの解説をしよう」をシャンカラが注解したものを抜粋します。

 ヨーガに関する目的と修行の手段が明確に示されない限り、何人もヨーガの理解と修行とを行うことができない。そこで、ヨーガを修行できるように、ヨーガ・スートラの著者が目的と手段に関していかに考えていたのかを解説してみたい。

 まず、ヨーガの目的である。医学を例にとってわかりやすく解説を試みたい。伝統的な医学書では四つの項目をあげて医学を説明している。すなわち、①病気の診断・②病気の原因・③完全な健康状態・④治療法である。医学では、さらに、これらのことを処方の仕方とその定義とで説明している。

 この方法はヨーガにおいても応用できる。ヨーガ・スートラ第二章第十五節に「事象の転変と不安と残存印象とからは苦悩が生じ、同じく三種の徳性と心理作用双方の働きが相反する故に、識別の智慧を得た者にとっては、この世のすべては苦しみなのである」という記述は、先の一番目の病気の診断に該当する。

 ヨーガに関して、先の医学の分類四組を説明するならば、以下となる。①克服すべきこと(病気)とは、苦悩に満ちた輪廻転生である②その原因とは、無智に起因する「観るもの」と「観られるもの」との混同である③その苦悩からの解放とは、それら両者が別のものであると知る不動の絶対的な智慧である④その識別智(ヴィヴェカー・キャティ)が現れると、無智が消え去る

そして、無智が消え去れば、そこで観るものと観られるものとの混同が完全になくなり、これが独尊位(カイヴァルヤ)と呼ばれる自由な境地すなわち解脱の境地なのである。この独尊位とは、医学における完全な健康状態に対応するものであり、これがヨーガの目的たる解脱なのである。

『ヨーガ・スートラ シャンカラ注解』より引用

保守本流の伝統的なヨーガとしての目的は、解脱でありその手段とは識別智(ヴィヴェカー・キャティ)なのですが、一般的には、ヨーガの目的を解脱としてはないことは重々にわかっていますが、しかし、同じ状況においての同じ反応による問題の繰り返しは誰しも経験しているのではないでしょうか?このことはある意味苦悩に満ちた輪廻転生と言えるのではないでしょうか?

もしも、このように考えるならば、まずは、観察して自らを自己診断する必要があり、それは、人生の先を急いで走りながら自己診断することはままならないので、とりもなおさず、止まって観る習慣をまずアーサナにおいて、緊張と弛緩を繰り返す中でその身体の反応を離れて観察する心の眼を育てることは大切だと思われます。

そして、どのように自己診断するということがひとつの鍵となるのですが、はじめのうちは、あれこれと判断したり今起きていることではない過去や未来への考えにとらわれたりしがちです。でも、止まって観ることは少なくても先を急いで動きながら観るよりははるかに観察できると思います。

そして、今現在に起きている身体の反応をしっかり見えれば、原因もいくつか挙げることができますし、その原因だと思われることに一つひとつ対処し消去していくことで問題解決の糸口になることをお約束できます

自己観察するための智慧や相対的な智慧に関しては、今後、少しずつこのnoteにて分かち合っていきます。

最後に

ちなみに、最初の画像は、初代シャンカラとのことです。

昨日、午前中にボッチャという競技の練習試合に参加して、午後はそのボッチャでお世話になっている友人の娘さんがママさんバレーをしているとのことで見学に行きました。すると、試合形式で練習するには人数が足りないとのことで三十数年ぶりにバレーボールをして今日は全身が痛いです。62歳なのでまさしく敬老の日となりそうです…

ベッドから起き上がることもままならない状態や歩くにも難儀な状態であったにもかかわらず、今朝に緊張と弛緩を繰り返すアーサナを下半身重点に行うことで多少の痛みはあっても、いつも通りに動けるようになりました。

次回は「行為の結果となる運命をカルマヨーガで紐解く」の予定となります。

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