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今生きている間に実践したい本当のマインドフルネス―サティ・パタナの効果


最近大流行のマインドフルネス、流行っている割にそれが何なのかは知られていません。仏教哲学でのマインドフルネスという言葉はパーリー語のサティという言葉の訳です。サティは簡単に訳すと『集中』もしくは『気づき』という意味になってしまいますが、実はこの短い言葉にはたくさんのエッセンスが詰まっています。

何に気づくのかと言うと、心や体の動きという生きていると起こる『活動』すべてに気づこうとする壮大な試みがマインドフルネスです。わたしたちの心や体は、宇宙で原始意識が生まれたその時からの膨大な記憶にもとづいて、潜在的に自動運転されるようにできています。潜在意識・顕在意識と言われるように、わたしたちが顕在的に選んでいるものは実はほんの一握りです。1日のうちのほとんどを、知らず知らずのうちに起こるチョイスによって過ごしているというのが現状です。

それを本能や性(さが)と呼んで放っておくか、目をむけるかもわたしたちのチョイスです。実はマインドフルネスを一番実践できる条件に生まれているのは人間、だから今生きているチャンスを逃さぬように、と仏教では口酸っぱく言います。

なぜかというと、たとえば動物に人間を超えるすばらしい勘や感覚が備わっていても、自らの意識に対する気づきを得るという機能は備わっていません。反対に天使や精霊など高次元の存在に生まれると、痛みや空腹の身体的感覚があまりなく、老いも病気も人間ほど早く進行しません。煩わしいことの少ない体質では、マインドフルネスを実践する「対象」に乏しいのが高次元の事情です。

煩わしいことが優勢条件となるマインドフルネスの実践は、重い身体や生々しい感覚という煩わしいものを持ちながら、客観性という知性を持ち合わせて生まれてくる人間が一番ぴったりな環境を備えているということです。

マインドフルネスはまずは自分の人生が自動運転で勝手に進んでいっているという現状に気づくことからはじまります。仏教でいう無知(アヴィッジャ)は、無意識の自動操縦に気づかず右往左往している状態のことを指し、決してバカだという意味ではありません。

意識の運転作業のひとつひとつを丁寧にとらえていく練習を重ねていくと、意識がうろうろすることが減っていきます。それによって間が生まれ、本当に良いものを選ぶ余裕が出てくるのです。行き当たりばったりで、ゴチャゴチャしていた人生はおのずと洗練され、シンプルでより良いものになっていくのがマインドフルネスです。マインドフルネスがビジネスで活用される際、効果としてパフォーマンスの向上が期待されるのはこのためです。

マインドフルネスの語源、サティという言葉を理解するとき、サンスクリット語やパーリー語のユニークな特性を理解できるとさらに深くその意図を知ることができます。音で意味を表現する言霊的要素の強いサンスクリット語源の言葉にはビジ(種)となる音が必ず隠れています。その種を見つけると言葉の本質を知ることができます。

例えば集中という意味であれば、ヨガでよく使われるダラナという言葉を使ってもいいのに、なぜサティという言葉を使うのでしょうか。サティのサンスクリット語はスムルティsmrtiです。種はs・mr・tiです。Sという音には精(エッセンス)という意味があります。mはマインド、tiはくっつく、留まるという意味です。このスムルティという言葉にはもともと『記憶』という意味があります。何を記憶するのかというと、ここで種のSMTをかなりざっくりですが解読しましょう。

(S)精に(M)マインドを(T)留める(日本語でもピッタリ合っちゃいましたね)

つまり、精(エッセンス)という本質・根本に対する気づきを保つという意味です。野菜をビタミン、カロチン、ミネラルなどで包有物を顕すように、わたしたちの心身の行動の包有物である動機を見極めて日々の行動を起こすのがマインドフルネスです。

その包有物には、空腹、楽しみ、不安、罪悪感、めんどくさい、プライド、正義感、恐れ、恥、優越感など、色々なものが入り混じっています。(仏教ではラガ(満足したい欲求)・ドサ(不満)・モハ(無知)の三つにカテゴライズされます。)ですが地球での一生はあまりにも早く過ぎていくものなので、その入り混じったものを引きずり回しながら、目の前の現実をなんとか生き抜こうとしているのがわたしたちです。

わたしたちは仕事をして衣食住を満たし、アドラー心理学で言われるような社会的な『居場所』を満たすことに忙しく、大人は子供にそれらを満たすように生きることが精一杯生きる道だと教育してしまいます。実際に今ブームのマインドフルネスもそれらを満たすために活用されています。

わたしたちの文明は、自分の意識が何によって作られ、日々わたしたちの心身が何によって突き動かされているのかに対して時間を費やすことに価値を置いてはいないのです。なのでそれが人生の優先事項になることはありません。ですが、一人でも多くの人がこの価値に気づき、人間として生きている間に意識を洗練させることに集中する時間を増やしていくと、それがわたしたちの『常識』につながっていきます。この価値にまず『気づく』ことから本当のマインドフルネスは始まるのです。



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