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遺跡と化石

 先日の Yahoo NEWSで「古墳を取り囲む無数の太陽光パネル」というタイトルが目を引きました。このNEWSを読んで、改めて持続性の価値について考えさせられました。何でもいいから残せばいいのか、人々が触れる形でなければ意味がないのか、等々。情報が残れば良いということなら、写真・ビデオ撮影、更には、超音波・電磁波を使って断層撮影を行い、デジタル情報として保存すれば良いということになります。一方、それでは古墳の成分、変化の履歴、周辺環境の中の存在意義等々、現物性・現場性は失われてしまいます。一方で、私はアンモナイトや三葉虫の化石を数個持っているのですが、20-30 年間それらを物置にしまい込んでいました。それがここ 2-3 年、物置から取り出して文鎮代わりに毎日使っているのです。というのは、ある時、「しまっておいたままでは、何か寂しいなあ」と思い、毎日化石に触れる生活をしようと思ったからです。
 遺跡の多くは墓や廃墟ですし、化石は死骸です。いずれも現世的価値観では気持ち悪いものですが、多くの人々は遺跡を好んで観光しますし、化石マニアもいます。なぜでしょうか? 遺跡からは、人が亡くなった寂しさではなく、人が存在したという「偉大さ」が響いてきます。化石の場合は、死骸の気持ち悪さではなく、「良くここまで残ったなあ」という感動が生じます。いずれの存在も "Something Great:何か偉大なもの"、言い換えれば「神性」を帯びているのではないでしょうか。このような心象が生じるのは、人類が「神」という観念を生み出したメカニズムと同じものかもしれません。私が毎日化石に触れる行為は、信仰に近いものかもしれません。
 私は、自然物が朽ちていくのにも価値があると思っています。数年前に千葉の古墳を訪れた時に、古墳の上で遊んでいる子供たちを見ました。古墳の上で遊ことで古墳の風化は進みますが、子供たちの大事な思い出という形で残っていくのだなと思いました。人が触われないように囲いを作ることで古墳を保存するのも一つのやり方ですが、形としては朽ちても、人々の思い出という形で残すという持続性 (価値) もあるのではないでしょうか。

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