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縁起、他力、そしてダンマの話

こんにちは、トミボーディです。
前回から随分期間が空いてしまいました。
今回のブログのタイトルテーマは
「縁起、他力、そしてダンマの話」になります。

仏教を勉強しているとよく思うことがありまして
自分がどの宗派、グループ(部派)に属する或いは基づく形で仏教を学んでいるかでその宗派なりグループの教義やバイアスが少なからずとも影響した中で仏教を理解しているのではないかとおもうのです。
それらによってはやはりブッダの本来の教えとは違った形なり文脈で仏教を理解してしまってはいないだろうか?という疑問符が頭に浮かぶわけです。

ですから私が仏教を学ぶ時、こうしたブログやSNSで仏教を発信する場合にはできるだけ
「ゴータマ・ブッダの仏教のエッセンス」を意識しております。
ゴータマ・ブッダの仏教のエッセンスとは無常、無我、縁起、四聖諦、ダンマ(仏法)などのことです。
そうしたエッセンスや、ゴータマ・ブッダご存世時から根本分裂までの約200年間の初期の仏教教団を含め個人的にですが「純仏教」と最近では定義して呼んでいます。
今回はそうした「純仏教」の視点から「縁起、他力、そしてダンマ」の話をしたいと思います。

さて前置きといいますか導入が長くなりました笑
先程「純仏教」と書きましたが"ゴータマ・ブッダの仏教"はご存世の時代にあった様々な哲学思想(六師外道やバラモン教的世界観)がある中で四聖諦、無常、無我、縁起またはゴータマ・ブッダによる新たなダンマの定義、世界観が提唱され現代に至るまで世界中に大きな影響を与えているのは言うまでもありません。
この中の無常、無我、縁起の概念は現代においても科学的に間違いがない我々21世紀を生きる時代人にとっても非常に親和性のある思想であり哲学、真理だといえます。
ただ我々日本人もそうですが資本主義が進むなか宗教離れや倫理観の欠落、道徳の崩壊、社会の分断など現代人は哲学や精神面でも不安定で混乱した時代を生きているようにおもいます。
そこにおいて「縁起、他力、そしてダンマの話」なんですね。
それでは少しずつお話いたしましょう。


2024年12月13日公開 実写映画「はたらく細胞」



今年(2024年)の12月13日に「はたらく細胞」というアニメの実写化映画が公開されます。
はたらく細胞は現代医学の観点から細胞の働きを漫画やアニメで分かりやすくユーモアに解説しているのですがその内容がまさにブッダの仰った無常、無我、縁起そのものであり私は個人的に現代仏教の経典だ!とさえ思っております笑
日本は大乗仏教の国ですが、とくに日本仏教に浸透している概念で他力本願という言葉があります。
まさにこの「他力」とはたらく細胞に描かれた体内の細胞や腸内細菌などの縁起的な働きは同意義であり様々な身体の微細で複雑な働きや構造、システムによって我々の健康や生命が維持されているという「他力」の存在、そして無常、無我、縁起の世界が身近に当たり前に起こっているともいえるのです。

こうした現代人にもわかりやすい形で仏教とは違う文脈ですがブッダの智慧を知る機会というのが現代では増えてきたように思います。
学問や学術的観点というのはもちろんですが、アニメや漫画といったソフトコンテンツも時として我々に深い智慧や思惟を与えます。
そのような現代ならではの"身近なモノ"で純仏教的なお話をしたいと思うわけです。

燃焼式液化ガスライター


さて皆さんご自宅にライターはございますでしょうか?
タバコを喫煙される方やお仏壇がご自宅にある方はライターをお持ちなのではないでしょうか?
なんといってもライターは生活に無くてはならない簡易に火がつけれる文明の賜物です。
一昔前は火のある生活が当たり前でしたからマッチやライターは本当に有難い発明なんですね。
今日はそのライター(今回は燃焼式液化ガスタイプをモデルに話をします)を手にとって読んで見て欲しいのです(くれぐれも火の扱いは気をつけてくださいね)

ライターというのは主にプラスチックと点火機構の部品や金属、それから燃料となる液化ガスからなる無機質の物質です。
一方我々人間は有機質ですが、私はこの無機質なライターと私達人間(生き物全般)は大してあまりかわらないのではないかと思っているのです。
つまりどういう事かと言いますと、ライターの火を点火するとき"原因"となる外部からの圧力(この場合は親指ですね)によって押し出された液化ガスの気体とフリント(火打ち石、回転ドラムの部分)から出た火花(もしくは放電)によって点火されます。
このとき周りにもちろん酸素が無ければなりません。
これらが"条件"として揃い、"結果"燃焼という「現象」が現れるわけです。
対象の可燃物(タバコなど)に着火する為には
原因→条件→結果という流れが必要になるわけです。
これらはまったく私達も同じことだといえます。
ライター本体は私達の身体といえましょう。
外的な圧力というのは眼耳鼻舌身意(感覚器官)に触れる様々な刺激や情報、もしくは身体内部に蓄積された傾向や習慣(貪瞋癡の三毒、煩悩)といってもよいのでしょう。
欲望、怒り、無知の煩悩とその傾向性や習慣性の働きにより色々にひっかかり(執着)、不満足(苦:ドゥッカ)が生まれそれらが熱エネルギーとなり心から様々な「現象(火、炎)」として現れていくのです。

炎色反応

そしてライターに点火された火、炎(現象)というのはいわば我々の「意識、心、感覚、感情や喜怒哀楽、個性や自我」といったものであるといえます。
つまり心や意識、主体的な我というものは身体を起因とした原因→条件→結果の故に生じたただの「現象」でしかないのです。
その現象に色が着いてるのがいわば「感情や気分、喜怒哀楽や情緒」といったものです。
もしもライターの火が青緑色なら銅、深い赤色ならリチウム、黄色ならナトリウム、紫色ならカリウムといった具合に化学反応によって炎色反応が変わりますが私達の心もまさにそのように貪瞋癡の傾向と体内の化学反応によって感情のパターンや情緒や気分も生起し変化し続けます。
その化学反応を時に「個性」と呼んだり「人格や性格」と観念化してるのです。
それらは無常ですね、ずっと気分がよい事はありませんしずっと機嫌が悪いなんてこともないのです。
様々な要因、原因や条件で我々の心というのはコロコロ変化し続けるものですから。。

仏教のお経に火焔経というものがあります。
悟られたばかりのブッダが2人のカッサパ兄弟という火の宗教を司る宗教者達に教えを説くんですが

「眼は燃えている。色(物質)は燃えている。眼識は燃えている。眼耳鼻舌身意は燃えている。
何によって燃えているか。
貪(欲)の火、瞋(怒り)の火、癡(無明)の火によって燃えている。」と説法したのです。

まさに私達は燃えている。
現象そのものであり、そこに"私と呼べるもの"
"私のもの"と呼べるもの、美しさや醜さ、悩み、思惟、こだわりや執着は全て幻であり、ただ現象があるだけなんだ、というのがゴータマ・ブッダの仏教なんですね。
そして何よりもこの現象を生み出す流れの中には
様々な原因と条件といった縁起性(関係性)があり、まさに他力(ダンマ)の働きによって淡々と燃えている、
科学的な文脈でいうと化学反応や合成、または分解、分子の循環作用と動的平衡の揺りかごの中で、生命を生きている(現象)に過ぎないのです。
私という自我意識、感情、思惟、想いといったものは現象に過ぎない、しかし扱いを間違えると三毒の怒りの炎は他者にまで燃え移り山火事の如く手に負えないとんでもない負の連鎖を引き起こす事も忘れてはいけません。

南伝の上座部仏教ではブッダの仏教を比較的忠実に護ってきた伝統がありますが、その伝統の中でダンマの話として無我や無常を説きますが同時に
「ただ名色(ナーマルーパ:こころとカラダの現象)があるだけ」だともいいます。
心と体の現象がただあるだけ、と言った場合にそこには無常、無我、縁起、または空も含まれるのです。
北伝の東アジアの大乗仏教でも空は体系的に説かれますが「他力」や「仏性」といった独自の概念も存在します。
これらも実はゴータマ・ブッダの仏教でいうところの「ダンマ」であり深い智慧のエッセンスがこめられた素晴らしい概念だといえます。
江戸時代初期の臨済宗の僧侶に盤珪永琢禅師という人物がいましたが、彼は「不生の仏性」を生涯説かれていました。
盤珪禅師の「不生の仏性があるだけや」というのと南伝仏教の「ただ名色があるだけ」というのはまさに同じ事なんですね。
不生の仏性(普遍的なダンマ)と名色(心とカラダの現象)があるだけだというこの考えこそゴータマ・ブッダの仏教のエッセンスであり、「純仏教」ではないかなと私は考えています。

盤珪永琢禅師

そして現代の文明、科学の中にもこの純仏教的エッセンスは普遍的にあるんだろうとも思います。
なぜならダンマ(真理)は普遍的でいつの時代でも変わらない自然の法則性、摂理そのものだからです。

またブッダが深い智慧と洞察力、そして並外れた知的な理解によって発見したこのダンマは今や国や民族、宗教を超え様々な人々の元に伝わりそれを自分の身体を使い心の実践(瞑想、バーワナ)によって確認する事ができます。
ライターの例えもそうですが身の回りにある物や事、生活の中で気づき(サティ)があり、洞察力があれば深い理解(智慧)にも繋がる本当に素晴らしい無形の知的財産を2500年前にブッダは遺してくれました。
現代人の我々だからこそ理解できる事も沢山あるはずですから皆さんも是非ご自身の問題や壁などがあった場合にゴータマ・ブッダの仏教、純仏教に触れてみてはいかがでしょうか?!

さて今回のタイトルテーマである「縁起、他力、そしてダンマの話」はこれで終わりになりますがこれからもこのブログでは引き続き「純仏教」の視点で仏教に関する記事を書いていきます。

長い文章になりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます、お疲れ様です笑
ではまた次回お目にかかりましょう。

トミボーディ



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