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寺沢この1年

↑しゃしんは九州場所で見た光景。
1月場所の7番相撲が狼雅(しゃしん右隣)とだった。まけた。その相撲を見て「寺沢は何をしたいのかわからない」と言っていた方がいらした。わたしの感想も大差なかった。
来年は是非、と思う方が、狼雅以外にも何人かいる。そういうひとに出会えたのも、1年この幕下上位を見ていた意義だったのかなあって。
ともかく濃い1年だった。旧四股名で書くのはそこから見てるよアピールとかそういうことではなくて、どうしても、その四股名で書くか、今の四股名で書くかで、イメージの違ってくるひとだなあと思う。この1年、だから、その四股名を懐かしみたくもある。

1月:初場所。東幕下7枚目、2勝5敗

飛ぼうとしていた件があって、その締めくくりに行こうと思って椅子席を取っていた。中日だった。主案件がリモートに切り替わったので、あわせてキャンセルした。確か払い戻しになった。
この場所は2連勝からの5連敗。初日の前日に、ようやく当地で公開された映画「相撲道」を見た。映画館から出るかその前か、休場力士がいっぱいでて取組がすかすかになるということを把握した。十両土俵入りがえらくソーシャルディスタンスーだったのを思い出す。
中日の北の若戦は15時過ぎ(幕下上位が地上波に食い込みかけた異例の場所)、物言い取り直しの末敗れ、その後乗れずに連敗の罠にはまる。ツラ相撲、ではあるけどね(勝つときもだねと。九州場所の千秋楽で先代がひとこと繰り出して、えらく納得した)。7番相撲の狼雅戦は前述の通り。
(たぶん)その、中日から朝乃山の付人が果たすべき大任・背中ぱぱんぱんの代理。本来であれば朝鬼神の役割であるところだったが。
さらに、取材を受ける朝乃山を見つめる姿がツイッターで話題になった。このとき、付け人ってどういうふうに取り上げられるのが良いのだろうかと、ずいぶんもの思ったんだった。突き破れてよかったなあと今は思う。

2月:高砂部屋公式ツイッター始動。

それは唐突に月末に始まった。月末といえば月初・3月1日は大関朝乃山の誕生日であり、その前に、というタイミングだったのかなと今は思う。
その1回目のツイートが実に衝撃的であった。

公式アカウントはかなりたいへんな年を過ごしたのだろうという感が(今は)する。かなりいろいろな試行錯誤の中で、見つけたものがいっぱいあったのだろうなあと、ことし締めのついーとを見て思ったわけではある。しましまタンクトップの赤パンの方にも大きな節目がきたんだなあと遠い目。

3月:三月場所@両国。西幕下18枚目、4勝3敗。

序盤2連敗も中盤五分に持ち込む。2勝3敗から連勝、ギリギリのところで勝ち越し(これがなければ今年中の関取難しかったのではという感)。 13日目で終わると土日がぽっかり(個人的な感想)。
詳細は下記へ。

こっからいろいろ始まったと言っても過言ではなかったのかもな(7日目:吉井戦)

4月:長い助走あるいは序章。

5月に何がどうなるかを想像だにしていなかった。ただ、あがっていた画像を見て、きゃっきゃ(?)していただけだった。これいまだに見る。すき。

5月:夏場所。西幕下13枚目、5勝2敗

鮮やかな変化2番含め4連勝で勝ち越し、9日目の5番相撲は阿炎戦、思いがけず塩配備されるもAbemaに映らず、普通に圧倒される。取組が2日空いたが11日目に衝撃が。翌12日目は部屋中に動揺の走る中、芝に敗れ連敗。ただし7番相撲で勝ちフィニッシュ。

このときに、大関の不祥事を受けての部屋の方々のありようが、どうであったのかということについては、しばしば思う。未だに、不祥事の処分としての番付降下と、それに伴う予期せぬ戦いに臨むひとのことを取りざたされるが、このひとほど、いろいろな立場で複雑に絡み合ったひとがいただろうかということを、考える。

夏場所の5番相撲で対戦した高砂部屋の関取候補、幕下の寺沢(25)は「(阿炎は)所作の1つ1つから全然違った」と振り返る。最近まで三役として活躍していた力士と、本土俵で対戦する場面はめったにない。「雰囲気、オーラみたいなものは感じたか」と聞くと「感じました。勉強になる一番でした」と即答した。

https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202106160000897.html

何にせよ、ここから、部屋をとりまく環境は、おおきくかわった。ように見えた。結局、そこにいるひとたちがどうであったかは、わからないのだけれど。

6月:お誕生日おめでとうございます

この頃は、ほんと、誰かの誕生日以外は、部屋公式ツイッターの更新がなくて、そのタイミングで、皆様の無事を喜んでいた記憶がある。
22日は弟弟子の朝氣龍さんとともにお誕生日(今付け人をしている朝大洞さんが前日21日お誕生日)。26になった。アラサーですかそうですかびっくりだ。このとき部屋公式に載ったしゃしんも実に強烈だった。来年こそは協会公式に出たらなあと思っていたものだ。
なお、お誕生日の前日が番付発表だった。このときのお誕生日プレゼントがあとあと響くとは思わなんだ。西幕下6枚目。

7月:名古屋場所。西幕下6枚目、6勝1敗。

名古屋場所には2010年以来で行った。行った8日目には平戸海戦があって、その一番は非常に響いた。ケレン味ということばについての考察を深めた。ケレン味、無いのも有るのも魅力だ。

さっそうと引き上げる(8日目・平戸海戦)

この場所は1枚上(予想番付では逆のも見たが)の兄弟子:村田(のち十両に昇進して朝志雄に改名)がほぼ相星で場所をたたかっていて、この平戸海戦あたりまでは対戦相手を交換しつつという趣だった。そのあとは相星の相手はまず村田にあたって敗れて、というパターンが続いたので、番付が下位のひとと当たることが多かったと記憶している。
結局2番相撲で時栄に敗れたのみの6勝1敗で場所を終えたが、6枚目であるがゆえに、昇進云々ということとはひととおりの距離があった。そのあたりの感覚は、未だによくわからないが、今となっては、その次の場所で、ちゃんと決められてよかったとソレばかりを思う。

9月:秋場所。東幕下筆頭、5勝2敗。

番付は東幕下筆頭となった。名古屋場所後すぐに東京五輪がおこなわれて、その間に部屋でクラスターが発生というしんぱいなニュースがあって。この場所はコロナの動向も手伝って直前まで方向性を決めかねていたのだが、諸々繰り合わせて7日目だけ見に行くことにした。この場所、その相撲が見られるのかどうか、直前までドキドキしていたのだが、結局、この日に十両戦が組まれることになった。しかもその十両戦がっ。

以降、大銀杏を見るたびに「綺麗だよ」というようなの、どこの花嫁(7日目・大翔鵬戦)

この7日目で3勝目をあげ、次の5番相撲(9日目)で勝ち越した。終盤までもつれ込む血で血を洗う入れ替え戦…に突入する前に、ほぼその座を掴んだことに、飛び上がらんばかりであった。
そしてそこからはついったーなどでも「新しい四股名はなんぞ」という話題で盛り上がったのだが、番付編成会議(朝鬼神さんの誕生日)に発表された四股名はまさかの……

10月:「朝乃若関」がかたちづくられていく1ヶ月。

九州場所の番付発表は11月1日。番付編成会議後速やかに九州場所を見ることにして、諸々の支度を進めて、この1ヶ月を見届けていた。
10月の声を聞くやいなや、帰郷して知事→市長にご挨拶→実家のカレーのコンボの報に触れ、俄に実感。母校からの化粧廻し贈呈式の様子も伝えられた。番付発表を11月1日に控え、この1ヶ月かけて、じっくりと関取に為るまでの時間を過ごしたということになる。
正直、同時期に新十両になる平戸海、先場所新十両なれど自身の新型コロナ陽性で休場となった北青鵬、のなかでは、いちばん心配だった。どれだけ通用するんだろうかと。だからこそ、一日一日、一番一番を噛みしめるように見たいと思っていたのだった。結果から言うと、噛み締めすぎて疲れた、くらい、充実の11月を迎えたわけではあるが。

11月:九州場所。東十両13枚目、10勝5敗。

率直なところ、不可抗力(番付奇数だから、どうしても1番は組まれる幕下十両戦)以外で、所謂入れ替え戦的な幕下戦が組まれず、終盤十両優勝に絡み、十両優勝を左右する上位戦が続くような状況になるとは、思いもよらなかった。「あの」新十両インタビュー以外では、地上波に乗ることはなかったのだが。

土俵入りも日々堂に入ってきた。

だんだん相撲に磨きがかかってきていたのが、とても見ていてたのしかった。

12月:これから始まる日々のことを

九州場所が終わってから1ヶ月も経っていないのだが、部屋のついったーなどを見ていると、さらにだんだんその存在感を増しているようで、嬉しくもあり驚きもあり、である。番付が発表され、その後の力士会では大学の後輩であり関取の先輩でもある東白龍となかよく語らい歩く光景を拝見することが出来た(おしゃしん多謝)。
初場所は東十両6枚目で迎える。考えない考えない。

よいおとしをおむかえください。
(って書いてたらちょうど紅白に佐渡が出ただとぉ

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