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魂が少しずつ人の心に宿る

今、水木しげるさんの漫画『のんのんばあとオレ』を読んでいます。
(↓キンドル版ですが、これがおすすめ)

漫画では、文庫本にない登場人物がおり、こんなシーンがあります。

仲良くしていた友達が、病気のために亡くなってしまいます。水木しげる少年は、いつもはとても食いしん坊にも関わらず、ご飯にも見向きもせず、ぼーっとしていると、「のんのんばあ」がやってきます。

ちなみに「のんのんばあ」というのは、水木しげるさんの生まれ故郷、鳥取県境港あたりでは、神仏に仕えたりする人を「のんのんさん」といっており、その人がおばあさんだと「のんのんばあ」と呼ばれていたそうです。

そして、なぜだか近所の、のんのんばあが、よく水木家にやってきており、七夕やお盆などの年中行事のことを教えてくれたり、妖怪やら、おばけやら、不思議な話をたくさんしてくれたそうです。

で、水木少年が、友人が死んでしまって、なんにもする気が起きない、と言うとのんのんばあがこう言います。

「それはなあ 千草さんの魂が
しげーさん(注:水木少年のこと)の心に宿ったけん
心が重たくなっちょるだがね」

『のんのんばあとオレ』

その前に、水木少年は、人は死んだら「十万億土」へ行くと聞いており、
魂は「十万億土」に行くんじゃないのかと聞き返します。
すると、のんのんばあは

「大部分はそうだけど 少しずつゆかりの人の心に残るんだがね」
「でも しばらくすると その重たさにも慣れるけん
 心配はいらんよ」
「身体は物を食うて大きくなるけど
 人の心はなあ いろんな魂が宿るけん 成長するんだよ」

『のんのんばあとオレ』

12年前に父が他界した際、私は遠方で一人暮らしをしていたこともあり、一人暮らしの家に戻ってから、ふと、父は生きていたときにも、お盆や正月に帰るときくらいで数ヶ月言葉をかわさないことなんてザラだったけれど、その状態と今は、何が違うのだろうか?と思ったことがあります。

もう会えないんだなぁ、と思って悲しくなるとか、そういう違いはあるのですが、「いる」状態と日常は変わらないということは「いる」も「いない」も同じであり、ということは、父のことを心に残しておくと言うか、そういうものなんだろうな、と思ったのです。

そして、人生を歩む中で、やはり知った人が亡くなる、という経験も重ねてきました。死を永遠の別れと表現したりもしますが、とはいえ、私は時々にその人たちを思い出します。

不思議なもので、亡くなる前は、そんなに関わりも深いわけでもなかったり、ひとことふたこと言葉を交わしたくらいの関わりで、連絡を取り合うこともない間柄だったりもするのですが、そんな私でも、本当にふとした瞬間に思い出すのです。

もちろん、良くしてくださった方や関わりの深かった方は頻度が高く思い出します。

そうすると、私にとって永遠の別れでもなんでもなく、都度、その方たちに、お会いしているとまではいいませんが、彼ら彼女らに視線を向けてもらっているような気がするのです。

それが、のんのんばあの言う「少しずつ人の心に残る」というものなのかなぁ
なんて、思っています。

あなたはどう思いますか?

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