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外側から忍び寄る「世界観」

これまでいろいろ書いてみて今回、正義について考えて対話をしてみたいと思う、大きな動機としては、不本意な形で翻弄されたくない、世界情勢としても不安定な世の中でも、しなやかに生きることを選択したい、ということだな、と改めて思っています。

正義がなにかを突き詰めるというよりも、正義と悪についてかもしれないし、善と悪についてかもしれない。そのジャッジする行為そのものについて、というテーマかもしれない。

というのも、正義は世界観に左右される、世界観は、ひとつ、自分は世界をどのように見ているのか?ポイントは、ありのままに世界を観ることができているかどうかでは、という話しをしました。

で、なぜありのままに観る必要があるのかというと、この世界観、外側で操作されて私のもとにじわりとやってきている場合もあると思うんです。

それは、世間とか、社会とか、当たり前とか常識とか社会通念とか、そんなかたちで表現されるものでもあります。

その極端な例が、ナチス・ドイツではないでしょうか。
第一次大戦が終わり、敗戦国となり、経済も停滞、
そんな不安定な中、声高に、分かりやすい世界を提示してくれたナチスに
大衆は飲まれてしまった。

ナチスは「優生学的人種思想を巧みに取り入れながら構築された、『ユダヤ人が世界をわがものにしようとしている』という陰謀論的な物語」(*1)を提示し、不安定さから脱却したいともがく大衆は荒唐無稽な「作り話」も、ユダヤ系資本が力を持っていた当時の背景から、説得力のあるシナリオとして受け入れてしまった。

それが真実かどうかは、ここでは問題になりません。陰謀論にはまった大衆が勝手に想像力を働かせてくれたおかげで物語世界がふくらみ、ナチスの世界観を強化していくことになりました。仮にその物語に疑問を持つ人がいても、何か変わったことを言えば、秘密国家警察であるゲシュタポに検挙されるかもしれないので、なかなか口にできません---何をやったら反体制派とみなされることになるのかよく分からない状況を作り出して不安にさせることが、全体主義下の秘密警察の特徴です。誰も表立って口にしない。だから政権に対抗するもう一つの物語へと発展していかない。疑問に思っていた人も、自分の気のせいだったかもしれない、と自分に言い聞かせ、修正しようとする。そのため、ナチスの作り出した世界観に合った物語だけが流通し続けることになります。

『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』131ページ

もし、当時のドイツに、私がドイツ人として生きていたとき、世の中のその流れに抗うことはできただろうか?ユートピアのように感じる世界観に、反発することができただろうか?

無理だろうな、と思うわけです。

そして、これと同じようなことが現代で起こらないかというと可能性がゼロではないのではないでしょうか。

今、陰謀論にハマる人が多くなっていると聞きます。陰謀論は分かりやすく、また、裏側を知り、正しく世界を観られたような、そんな気持ちになります。

陰謀論に耳を傾けることは、どこかに偏りすぎないためにもありうるものだと個人的には思いますが、それによって、人間関係や周りのことが崩壊していくのは悲しいことだと思います。

ナチスの世界観がどうして広がり続けることができたのか。それは、「ナチスがドイツ人からも道徳的人格を奪っていたから」(*1)

道徳的人格、つまり、自分の頭で考えたり、判断したりすることを止めてしまったとき、外側の世界観に一気に飲まれてしまうのだと思うのです。

だから、安心安全に、一人ひとりが尊重された場で、正解や不正解を決めるわけでもなく、正しさや間違いを見つけるわけでもなく、答えもなく、結論もない、対話をすることが大切だと思っています。

そうすることで、世界情勢としても不安定な世の中で、しなやかに生きることを選択することが実現できるのでは、と考えています。

・・・どうでしょう?

(文責:森本)

(*1:引用は以下の書籍より)

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