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死を考えることは、縁起でもないこと?

以前、知人と話をしていたときに、「死について語ることはタブー視されている」という話になって、びっくりしたことがあります。

なんでもその人は、友人に何気なく死について話を振ったとき、「死を考えるなんて、縁起でもない!」という反応をされたそうです。

もちろん、何かしらの要因で死が目の前に近づいていることをひしひしと感じられている状態で、死について考えることは非常に恐ろしいことだと思います。

そんなふうに、他人に死を突きつけることはできません。

ただ「やみくもに恐れるだけ」というのは本当に適切なんだろうか?と思うのです。

死について考えることがないし、触れることがない。

だからこそ、過剰に恐れてしまう部分がある。

私は、拡大家族で育ったので、小学2年生のときに曾祖母を、二十歳のときに曽祖父を亡くし、家でお葬式をした様子を覚えています。

いつも快活なおばさんたちが集まって曽祖父を自宅で看取り、老衰で亡くなったので、ある程度の納得感がありつつも、

いざお葬式が始まると、きっとこれまでを思い起こしているんだろうなと静かに泣いている様を見て、

これまで受け取ったことのないような感情を受け取った気がしました。

死に真正面から向き合う。

それは自分が生きるということに向き合うということ。

死を考えることは、決してマイナスなことではなく、真摯になることだと思うのです。

コインの裏表のように、死を考えることで、

生きることはどういうことなのだろう?

命とはどういうものなのだろう?

そのことも一緒に考えられると思うのです。

著者の田坂氏が、講演終了後に聴衆の一人から「死とは何でしょうか?」と問われた際、こう答えたそうです。

その問いに答えるためには、もう一つの問いを、問う必要があります。『私』とは何か?

『死は存在しない』

「“私”とは何か」という問いもまた、一筋縄ではいかないものです。

ただ、やみくもに恐れるのではなく、死というプロセスを考えてみる。

そのことを通して、今を生きることが楽になれば。

今この瞬間や明日が楽になったらいいな。

そんなふうに考えています。

あなたはどう思われますか?


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