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[自己紹介]僕が誰だか知ってます?

僕が誰だか知ってます?
知ってるよって方も、そんなに小さい時の頃からのこと、
話したことないんで、聞いてください。

幼少期の時の夢は、
先生と結婚することと、
うさぎになることでした。

落ち着きがなく、
遊ぶのが大好きで、
約束の時間に家に帰らず、
トイレに閉じ込められ、号泣していた幼少期です。
サッカーなんてやってませんでした。

小学校低学年の時は、
正直覚えていません。
水泳クラブが嫌いで嫌いで、
でもスーパーで必ず買ってもらってた、
ココアかミルクフランスのために頑張ってました。
あんなに嫌がってたのに、
無理矢理でも続けさせてくれた、
母親には感謝です。

小学校4年から、
サッカーを本格的に始めました。
近所の友達に誘われて、あるクラブに体験に行きました。

みんな上手で、
今だから、言葉にできる感情は、
「こいつらに敵わないんじゃないか?」
って感情を抱いていたと思います。

遠いとか、
友達が少ないとか、
暗闇が多くて危ないとか、
色々と理由をつけて、
行くのをやめたのを覚えています。
あの時あのクラブに入っていたら、
サッカー上手になってるかもしれませんが、
サッカー続けてないかもしれません。

入ったクラブのなかで、
自分は多分初心者のような立ち位置。
試合をするのも初めて。

多分初めての試合は、
途中出場で、中盤。
ファーストプレーで鳩尾に、
ボールをモロにくらい、かっこよく退場。

そこから、
同級生や、上手な先輩に
負けじと声を出し、
走り、練習した。

今となっては、試合に出れていた、
理由はなんだったんだろう。
声出してたからかな??

小学校の記憶はない。

中学に入る時、
部活に入るか、クラブチームに入るか悩んでいた。
横浜FCのテストに落ち、
湘南ベルマーレやフロンターレのテストは、
ビビって受けず。

あの時から、自分の実力のなさには、
なんとなく気づいていた。
だから練習したし、
スキルブックなども読んだ。
体幹トレーニングも本で学んでやっていた。
考え方は間違ってたかもしれないが、
誰よりもサッカーのことを考えていた。
(その中学校の中では。)

頭もいいわけではなく、
授業はちゃんと聞いているのに、
授業中に廊下でふざけている友達と、
成績はいっしょ。

定期テストなどは、正直徹夜の、
付け焼き刃。
次の日になったら忘れている。

高校受験。最大の試練が訪れる。
公立校に受からなかったら、サッカーができない。
でも行きたい高校は、今の自分よりも
2、3段上のレベルの高校。
まさしく、死ぬほど勉強した。

自信がないまま、
合格発表の当日を迎えた。
友人と通知を開けると、
合格の文字。
とりあえず、安心した。
サッカーできる。

高校は、
初めてサッカーをしたところ。

今までやっていたサッカーはサッカーではなかった。
周りには、ボロクソうまい奴らしかいない。
先輩も、後輩もみんなうまい。
試合に出れない。
悔しい。なんでこんなに練習してるのに、
試合に出れないんだ。

思いの方向がおかしかった。
自主練をやっただけ上手くなれると
思っていたし、
実際入学当初よりは、
上手くなった。

でも卒業までに、
試合に出たのは2試合。
誰も責めれない、
あの時間は無駄だったと気づいたのは
もっと後になってから。

よかったこともある。
本当に練習した。
本当に走った。
本当に頑張っていた。
この先誰かに頑張れって言えるくらいやってたと思う。

悪いこともある。
前述した通り、
結果が伴ってない。
考えてないでやる量は、質やセンスにはかなわない。
いくら自主練しないやつでも、
サッカーはうまい。
自主練をするだけでは上手くならない。

大学受験。再び試練が。
高校サッカーで華開き、
Jクラブか大学からスカウトや、推薦がもらえると、
勘違いして、自主練は頑張ってたが、
授業中、黒板を見ずに、
机に突っ伏してた。

自主練を考えてできない奴は、
勉強も考えてできない。
とにかく量が必要だった。

朝から自習室にこもり、
授業中も、必要なテキストをやり漁る。
放課後も自習室で勉強。
東進ハイスクールのパソコンに、
首ったけだった。

結果
大学合格と、
視力低下を手に入れた。
ここら辺から、夜の練習で、
ビブスの色が判断しにくくなった。

さて、
大学入学。
ここで結果残さず、どうする。
この先生きていけないぞ。

プロサッカー選手を小学校高学年から、
ずっと描いてきて、
大学に入学した。
ということは、
大学卒業か、もしくは中退で、
サッカー選手になるしか手はないぞと。

ここでなれなかったら、自分の中で、
いくら熱い想いがあろうと、
引退してしまうと思った。

行く必要のない、Aチームの練習に行き、
脇でボールを蹴ってアピール。
自分のカテゴリーの練習では、
常に全力。
先輩も構わず、我が道をいった。

2年の終わり頃先輩に言われたのは、
「お前丸くなったな」

一年でその環境に慣れて、継続はしていたものの、
ただやるだけの高校と同じ繰り返しをしていた。

一年の最初は、ギラギラしていて、
トゲトゲしててよかったと。

まずい。自覚した。
このままでは変わらない。
プロになれない。
考えた。
どうする。
多分この辺から、
すこーしだけ考えた。
ちっさい使ってこなかった脳みそは、
なかなかの労力を使わないと、
変わらない。使えない。

時々、ハッと使えてるのかも!と
思っていた3年の終わり。
骨折した。

4年になる前に、クソみたいにアピールして、
輝かしい大学ラストを飾るぞと。

骨折した時は、
絶望した。
「この先どうなるんだろう。」
「サッカーできなくなった俺はどうなるんだ。」

しかし幸い卒業まで時間がある。
そうまだ、大学サッカーでアピールする時間はあるんだ。

必死でリハビリして、
ようやく復帰。
その時入ったチームは、
かろうじてBチーム。

まだチャンスはある、
やればなんとかなる、
また考えるのを放棄して、
ひたすらにプレーしていた。

ある日、ボードを見ると、
Cチームになっていた。

コーチを殺してやろうかとも思った。
なんでこんなに思いの強い俺を、
落とすんだ。
もっとやる気なくて、ポテンシャルだけでやってる奴なのに。

でもそれで十分なほど自分の実力は、
お粗末で、
高校と同じ、考えないだけ、
走るだけ、蹴るだけ、
叫ぶだけ。
今までの自分ではもう通用してなかった。

でも、負けたくない気持ちはあった。
ある日、Bチームと紅白戦。
Cチームで出場して、マジでコーチを
ギャフンと言わせて、返り咲く。
有終の美まで駆け登る。

相手のクリアボール。
CBをやっていた自分は、
FWに体を入れられていたが、
無理やり足を伸ばして、そのボールを返そうと思った。
グッと体を押し出したその時、
バコッと、

肩が外れた。
激痛に崩れ、
救急車で運ばれた。

脱臼4回目。
「手術が必要だな、すぐには治らない。」

多分10月前か、少し肌寒くなってきた時期。
大学サッカー引退が決まった。

次の日から、自分の役割は、
Dチームのコーチ。
監督もコーチもいない、
正直もうどうなってもいいチームの
盛り上げ役。

最後は笑って、彼らの引退試合を送れたが、
自分にはもうどうしたらいいかわからない、
どうしようもない不安がずっと続いた。

サッカーやめるのか。
就職するのか。
何になろう。
何がサッカー以外に熱くさせるんだ。
好きなこと以外でお金を稼いで、
何が面白いんだ。

もう決まってはいたが、
決心した。
海外に行く。
プロサッカー選手になる。

少しずつモチベーションも上がってきて、
学校には、ジムと、
後輩に混じって引退したはずの自分が、
練習をしに、行っていた。

どうしようもないこの夢のために、
4大を卒業して、しっかり働くということを捨てた。

親はそれはもちろんびっくり。
監督も反対。
周りも、半笑い。
でもよかった。
夢諦めて、
あそこでやめていたら、
本当に死ぬまで後悔してただろう。

卒業式にも出ず、自分は年末に、
タイに行った。
テストを受けに。

思っていたことと違うことばかり、
言語も文化も違う場所で、
すごい不安な思いはあった、
でも大丈夫。
俺はサッカーをしにきた。
プロになりにきた。
目標は明確だった。

どんなことがあっても、
大丈夫だった。
実際イライラも、
不安も、
寝れない日も、
髪がたくさん抜ける日もあった。

それでもやめない。
絶対やめない。
その気持ちが届いたのか、
ビザが切れて帰国しなければいけない、
二日前に契約が決まった。

人生の中で、
大きな目標を一つ達成した気がした。

夢のひとかけらをつかめたような。
たとえ、Jリーガーに、
所詮タイの3部と笑われてもいい。

諦めなかった。それは本当に良かった。

今、26歳。
このタイで契約した時は、
22歳。

4年経った今も、
サッカーをこよなく愛する、
諦めの非常に悪い、考えが浅はかな自分。

それが、僕です。

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