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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第16回「伝説の幕開け」を見て

ほとんどの週末わたくしは、東京や中山や阪神や福島を舞台として過酷なテレワークに勤しんでいる。日曜の夕方ともなると疲労困憊している。なかなか勝てない。悔恨と絶望に苛まれ、当日のレース映像を見ながら、やけ酒をかっくらうことが甚だ多い。そんな自分には日曜夜8時からNHKで大河ドラマを見る習慣がない。

とはいえ、このごろ三谷幸喜脚本の『鎌倉殿の13人』を見るようになった。今さらながら衝撃を受けている。というのも、それが中世日本における激烈な覇権争いを描いているからだ。実のところ『真田丸』の時代は世の趨勢がだいたい固まっていた。あくまで武家内部の主導権争いに過ぎなかった。が、今回は貴族から武家への権力移行の過程が描かれる。朝廷、平氏、源氏の3つ巴の争いだ。

三谷幸喜は、そもそも鎌倉幕府、ひいては武家社会の存立そのものに疑問を投げかけている。武士の成立自体が日本の原罪ではなかったのかと。ある意味で、これまでタブー視されてきた歴史観と言ってよく、これは新しい。

日本の武家の暴力性およびその犯罪性は、これまで自分も漠然と考えてきたことだけど、まさにこれをテーマとした大河ドラマになるようだ。とすれば、これまでの三谷脚本のたどり着いた畢生の作品になる可能性がある。というのも、三谷はつねに歴史の暴力性に向き合いつつ、これを笑い飛ばす方途を探ってきたからだ。

同時に、歴史系クラスタが反発するのも良く解る。ここで問われているのは歴史ではなく思想だ。日本の歴史を可能にした原理そのものに三谷は疑念を向けていて、そんな視線は決して歴史家や歴史研究者からは出てこない。日本という国の有り様そのものに三谷は向き合っている。それは思想家の視線である。

日本の歴史および政治思想史において鎌倉幕府の成立は徳川封建体制の確立より、はるかに大きな変革である。なのに、これまでピンと来てなかった。それは鎌倉武家史観を鵜呑みにしていたからだと思う。関東中心主義と言ってもいい。武家の成立を自然のことのように思わされてきた。が、違う。いっこうに「自然」ではない。

後白河法皇が権謀術策を弄し、平家と源氏のあいだでバランスを取りながら朝廷の権威を守ろうとするのは当然である。貴族が営々と護持してきた文化が日本国の精神的支柱となってきた。読み書きすらままならぬ坂東武士ごときに代わりが務まるはずがない。いや、そうさせてはならぬ。

三谷脚本では道化のような扱いだが、あの時代の朝廷、なかんずく後白河法皇の影響力には端倪すべからざるものがあって、頼朝はこれを骨抜きにするのに苦心惨憺した。京都近郊ではなく、あえて僻地の鎌倉に幕府を据えた彼は、朝廷の権威から独立した武家の支配体制が必要だと深く理解していた。

平氏との京での権力闘争に敗れた源氏は関東にいわば放逐されたが、彼の地で坂東武者という暴力集団を味方につけるのに成功し、勢いを盛り返した。それを見て後白河は義経を籠絡し、この暴力装置を配下に置こうと企てた。それにより公家による国家支配を復活させようと試みたのである。頼朝はその意図を明確に見抜いていた。

その遠大なヴィジョンが義経にはまるで理解出来なかった。天才的な軍略を誇る弟は政治的にナイーブで、後白河はこれを懐柔しようと努めた。陰謀家のように描かれるが、実際のところ法皇には陰謀しか手段がなかった。その寵愛を有り難がり、浅薄短慮な振舞いに終始する義経は、武家にとって次第に危険極まりない存在になって行った。血を分けた弟といえど許すわけには到底行かず、源氏から追放せざるを得なかった。

以上のような政治思想史的な文脈は三谷脚本では背景に退いている。そんな生硬で粗雑な説明をすることなく、貴族社会と武家社会の内紛と戦争のリアリズムをギャグとユーモアを混じえて描く。むしろ、そんな身振りこそが武断政治への批評になっている。

陰惨な権力闘争を描いているので、あえて笑いを盛り込み、視聴者が付いて来れるように工夫している。脚本家がビリー・ワイルダーを始めとする古いアメリカ映画から学んだ技法で、ここで躓いているようでは三谷ドラマの真骨頂は理解できない。

鵯越と木曾滅亡を1回で描き切った手腕には、まこと驚かされた。役者も揃っている。これだけ力量のある脚本家なら、数回に分けてじっくり描きたい物語の山場のはずだろう。

鵯越では馬が崖を降り下るシーンをまったく見せない。「ああ、疲れた」と義経を始めとする一行が山から降りて来た時の表情を映すだけ。戦場の暴力をあからさまに描きたくないのだ。それは無粋というものだ。

むしろ戦略に対する義経の純粋な才能に焦点を当てる。勝つためには手段を選ばない。というか、勝つにはどうすればいいかを一瞬にして見抜く。軍師である梶原景時には及びもつかぬ才能だ。かれと義経の関係は、まるでモーツァルトとサリエリのようだ。というか、三谷はあきらかに往年の名作『アマデウス』を踏まえている。

梶原景時は義経の軍略のほうが「理に叶っている」と認めざるを得ない。それは決して非合理なものではない。むしろ徹底的に合理的であるがゆえに余人には思いもつかぬものなのだ。それは後の織田信長にも見られる合理性である。日本社会では受け入れられない。両者とも非業の死を遂げることになる。

木曾義仲と巴御前の愁嘆場にしても長々とは描かない。今井兼平の最後の死闘と、主君亡き後の自刃も見せない。おそらくは義仲と別れた後、ひとり鎌倉に向かう巴に獅子奮迅の立ち回りを演じさせたので、今井の分は割愛したのだろう。しごく禁欲的で、感傷的な書き込みが全くない。

肝心なシーンを一切書かない。省略して視聴者の想像力にまかせる。この見切り。視聴者を信頼していないと出来ない。脚本家ならでは。学者や小説家にはできない芸当である。

それにしても今回青ざめたのは、自分が木曾義仲の真価を全く理解していなかった、そう気づかされたこと。源平の争いなど、子供の頃から本やテレビや映画ですっかり解ったような気にされていた。いわば「鎌倉史観」にすっかり洗脳されていたのだ。そこでは義仲は田舎者のサル扱いされていた。

そんな野鄙な男に美女の巴御前が付いて行くかぁ?いかにも解せない。しかるに、腐り果てた京の都にはない田舎者の至誠というものが有り、これを体現し、武家の志を赫々と世に示したのが木曾義仲だった。その男ぶりに巴は惚れ抜いたのだ。

ちなみに義仲は長躯で色白の美男子だったそうだ。複数の資料がそう書き留めているので、よほど目立つイケメンだったに相違ない。見栄えという点では頼朝など及びもつかなかった。お相手の巴御前も目をそばだてる美形だったのは言うまでもない。この美男美女のカップルが私心なく木曾山中から京に馳せ参じた。京に一番乗りした。なるほどこれは頼朝側の嫉妬と怨恨を炎上させただろう。じつに解りみが深い。

この2人は何だか『ボニーとクライド』のようなのである。というか、義仲と巴を主役にした映画やドラマがあってもよかったはずなのだ。なのに私たちは「鎌倉史観」のせいで木曾義仲のことを田舎猿と見なしてきた。今なお義仲を主人公とする映画やドラマはほとんどない。史書の書き手たちに千年来すっかり騙されてきたのである。

物語の奥義とは、事細かに史実を引き延ばして語ることではない。それだとまさに作中の義時の報告文のように、長々しいだけで焦点がボケてしまう。学者や作家が書く本はどれだけ長くても許されるのかも知れないが、脚本家はそうではない。舞台の時間は限られている。

限られた時間内に、限られたことを書くしかない。さらにいえば、残された歴史資料に本当のことが書いてあるわけではない。だから検証が大事だと研究者は言うのだろうが、そもそも何も書かれず、資料に全く残っていない人物や事象が歴史を決定づけることもある。

「鎌倉殿」では頼朝子飼いの暗殺者が出てきて、重要な役割を果たす。三谷の創案らしく、実在した証拠など微塵もない。が、いかにも有りそうな話だ。陰謀と謀略と暗殺が渦巻く世で、頼朝は身を守らねばならなかったし、いざとなれば敵を謀殺する別動隊を必要としただろう。そんな存在がなければ、奥州に落ち延びた義経の首を取るなど容易にはできなかったはずだ。

いわば忍者の前身だが、こうした人材はいつの世も必要とされてきた。が、歴史的な資料には決して残らない。それを描けるのは創作家だけである。歴史家の物語る歴史など詰まらない。それはいつも権威づけられた正史にすぎぬからだ。そして正史は常にいかがわしい。

書き残された歴史など、本当に起こった歴史事象の上部だけの上澄みにすぎない。書かれずに終わった膨大な出来事があって、この沼に想像力をもってアプローチするのが創作家の使命である。

研究者は「第一次資料」と称して歴史文献を漁り、その枠内で統一的で精緻な解釈を打ち立てようと企てる。しかるに、その第一次資料自体がそもそも疑わしい。なぜ資料に事実が記されていると信じられるのか?むしろ文字に書き残されるような歴史とは嘘ばかりではないか。書かれたものとは嘘の塊ではないか。

史実と見なされるものは、いわば泥濘に咲く蓮の花のようなものだ。誰にでも解りやすく編集されている。その花の枠内で細々と整合的な物語を歴史家は語ろうとする。しかるに花を支えるものは泥濘の下にあって、外からは見えない。歴史家に歴史の真実は視えない。創作家の想像力により接近する他はないのである。






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