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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(Vol.3)――普遍的生存権のために

『アソーカ』の退屈さ

『アソーカ』を見るためにディズニープラスに再加入したのだが……つまらん。最初の20分で見るのをやめてしまった。そもそもこのアソーカって女、やたら高慢チキで、ハナから人を見下している。そんな演技をさせる理由が解らない。男社会相手に戦うフェミニズム戦士なのか?

古代遺跡の地下に入り込み、4隅の石を動かして隠された宇宙地図を取り出すのが導入部なのだが、このシーンがやたら長い。石をゴリッと動かすたびに、このイキり女が「オー、マンダム!」(=古代語)みたいに悦に入るのである。それが4回くり返される。この製作陣には「編集」という概念がないのか?アタマ、悪すぎ。

それと共和国軍の制服が異様にダサい。ユニクロのジャケットみたい。共和国にカネが無いとアピールするためにわざとやってるのか?と疑ったほど。デザインに見るべきものがないSFドラマなど頂けない。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3』

やむなく『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3』に切り換えた。こっちはさすがで、美術もデザインも文句のつけようがない。生体デザイン的な新しい領域に踏み込んでいて、目を奪われた。色彩感覚も豊か。

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は、ガーディアンズが結成されるに至る最初の作品が紛れもない傑作だったけど、パート2はごちゃごちゃして、さほどでもなかった。今回のパート3は世評も大したことなく、サブスクで見ればいいやと映画館には行かず終い。

実際のところ美術やSFXは素晴らしいが、ストーリーや設定に破綻が多すぎて納得が行かない。なくもがなのシーンが多すぎる。途中で退屈しかけた。

愛する人の死――空へ

ところが、カワウソのライラの造形が反則だ。ひとのいちばん弱いところを突いてくる。ずるいぞ、監督&脚本ジェームズ・ガン!途中から居ずまいを正して見てしまい、予想どおりの展開とはいえ不覚にも号泣。

アライグマのロケットがなんであんなに人間っぽいのか、なんであんなに性格が歪んでいるのか、思えば不思議な話だった。本作はそこに焦点を当て、一気に物語を深化させた。

マッド・サイエンティストのハイ・エボリューショナリーが、すべての生物を完ぺきな形に進化させようと企てる。動物は人間のように直立歩行して、言葉を話し、思考することができねばならない。その実験動物としてアライグマの仔ロケットが選ばれた。脳を改造され、両足で立てるように機械化される。

ところが彼には人間が思いもつかぬ新しい発想ができ、ご主人様より知的能力が高いことを示してしまう。「お前には何でそんなことが解ったんや!」と嫉妬と怒りを買う。ハイ・エボリューショナリーはロケットの脳を抜き取り、おなじ実験動物仲間のカワウソのライラをはじめ、セイウチのティーフやウサギのフロアは殺すように命じる。

ライラは母のような慈愛でロケットに親切にしてくれた女性だった。一度でいいから空を見たいと願っていたが、後ろから無残に撃ち殺される。最後に収容所の暗い天井を眺めながら「空……」と呟いて息絶える。動物仲間も皆んな殺されてしまう。

激情に駆られたロケットはハイ・エボリューショナリーに飛び掛かり、その顔面を破壊し、追手から逃れて宇宙船で逃げ延びる。最初は大人しく内気な少年だった彼が、どうして皮肉屋で憎まれ口ばかり叩くような大人になったのか。その裏にはこんな悲劇の体験があったのだ。

誰もがそうだとは言わないが、少年時代、自分の力不足で仲間を失う体験をした者は少なくないと思われる。文字どおり、愛する者に死なれることすらある。そうした負い目を背負いながら私たちは生きている。

おそらく左派として知られる監督ジェームズ・ガンにもそんな体験があったに違いない。中二病的で偽悪的なジョークをツイートしまくった過去をトランプ派に暴かれ、この作品の監督をクビにされかけたが、彼の内にはそんな形でしか発散できない、やむにやまれぬトラウマがあったのではなかろうか。

ライラの死は擬人化されてはいるというものの、彼女と同様に暗い檻のような場所に閉じ込められ、生涯《空》を見ることなく、いいかえれば自由を味わうことなく死んでゆく者は世界に決して少なくないと思われる。ロケット=ガンの憤怒と激情は私たち観客に直接伝わる。

ロケットは瀕死の極みで昔の動物仲間と再会する。ライラが前に歩み出、あなたがここに来るのはまだ早い。戻って自分の仕事をするようにと促される。私たちもまた、これと似たようなかたちで死者から生きよ、と背中を押されることがありはしないだろうか。そのとき生きることは、これまでと違う意味を持つ。

普遍的生存権の擁護のために

本作は宇宙の無法者を成敗するアクション物だったはず。今回もその構成こそ取ってはいるが、実際のテーマは現代的な普遍的人権の擁護とその全面的な拡張である。

狂気の科学者ハイ・エボリューショナリーは、生命を完璧な存在に至らせる科学的進化を説く。ところが自分の創り出したカウンターアースの動物人間たちは至極凡庸で完全どころではない。かれはすっかり失望している。この惑星の住民全体を滅ぼし、自分はアレート研究所の母船で別の星に逃げ去ろうと企てる。新しい星で実験をやり直すつもりなのだ。

ようするに彼は近代の設計的理性の権化であり、そのパロディである。世界全体を合理化し、人間を完全で理念的な存在に「進化」させようという近代のプログラムは決して無効化されてはいない。その野望は今なお至るところで蠢いている。

この宇宙船には実験人間である子供たちが無数に檻に入れられていた。かれらを炎上する船から救うべきは当然のことだ。「あなたが助けるのは人間だけ?」と問われた主人公ピーター(クリス・プラット)は囚われた動物たち、のみならずモンスターの檻すら開け放つ。あたかもノアの箱舟のようにガーディアンたちの船ノーウェアにすべての生き物が逃げ移ってくる。

普遍的人権、いや「普遍的生存権」は動物やモンスターにまで及ぼさねばならない。創造性に富んだ、そうなるべき完ぺきな人間を創り出すことを夢見るのではなく、ありのままの人たちの生きる権利が擁護されねばならぬ。

ジェームズ・ガンが不祥事でクビになりかけたとき、真っ先にその擁護に回ったプロレス出身のデイヴ・バウティスタが、本作では最高に好い役柄を演じている。かれが演じるドラックスは愚かで救いがたい失敗をくり返すが、実験人間の子供たちには最高の父親になる。真のヒーローだ。口うるさいだけのネビュラは子供たちから嫌われる。

映画の冒頭では「踊るやつなどアホだ」とうそぶいていたタフガイのドラックスは、万事解決したあと子供たちと住民の踊りの輪に加わり、映画は大団円を迎える。

まさに自分を支持してくれた俳優チームの絆を礼賛するような映画になっている。にもかかわらず、劇中で主人公ピーターは愛する女性から去られ、ひとり故郷の地球に帰る。老父との絆を取り戻そうとする。一抹の寂寥感を感じさせ、たんなるメッセージ主導の素朴で観念的な映画に堕していない。

近年のディズニーのポリコレ・メッセージ史上主義が極限にまで突き詰められた映画と言える。すべての生きるものに生存権を要求する、きわめて「思想的」な作品だが、そのメッセージが同時に極端なまでのエンターテインメントとして昇華されている。これは目下大ヒット中の『バービー』にも共通する手法だ。ハリウッド映画はこれまでと何か違うものになろうとしている。

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