「本質」の「本質」とは?

「本質」は「神」と同様、力のある言葉である。例えば、会社の上司が、「この案件の本質は〇✕▽だ!」と発言した瞬間、それを聞いた部下が、無意識に「なるほど…」と唸ってしまい、「本質=真理」という歪んだ認識と変化し、無批判に上司の言葉を鵜呑みにしてしまう事象が発生することが散見されるだろう。このように「本質」という言葉は相手の思考停止を導く凶器にもなりうる。そのため、「◆□の本質とは?」という問いには、「なんとなくこれが本質かな…」という境地に達した瞬間に、思考停止となる危険が潜んでいることを肝に銘じなければならない。譬えて言えば、「◆□の本質とは?」という問いとは、霧がかかっていて山頂が見えない巨大な山を、好きな登山道を選んで登っていく出発点を指すのだろう。ここで注目すべきは実際の登山との違いである。それは、今から登ろうとしている山には、本当に頂上があるかがわからないこと、加えて、人間が、「ここまで考えたからもういいや」という地点で、勝手にそこが頂上であると認識してしまいがちなことであろう。他方で、頂上が仮に存在するとしても、それは人間の幻想であり(蜃気楼のイメージ)、頂上というものはそもそも存在していないという捉え方も可能である。本質探究者には、本質を問う際には、こうした危険な性質があることを念頭に置いた上で、探究を楽しんでいただきたいものである。

 では、なぜ私達は「本質」を探究するのだろうか。それは、「神」「真理」を探究することが喜びや楽しさを生み出すことと同様のメカニズムが働いているからだろうか。或いは、世の中の「概念や情報の発信者」による洗脳を免れることによって、最適な意思決定を行うためだろうか。各人によって、「本質探究」の楽しさを見出している点は異なるであろう。私の場合、「真善美」を探究することが私の人生に潤いを与えている(つまり、探究依存症と称しても過言ではない。)ため、止めろと言われても止められない。本質探究に足を踏み入れない者(享楽的な生き方を楽しむ者)からすれば、本当に人生を楽しんでいると言えるのかという批判もあるだろう(例えば、東京ディズニーリゾートにおいて、純粋にその世界観を何も考えずに楽しむことなく、人々を惹きつけるメカニズムやオリエンタルランドの戦略に思考を巡らせることを楽しむ人々を異星人と称して探究者を揶揄する事象が挙げられる。)。私からすれば、そういった批判をする彼らこそが異星人であって、理解に苦しむのであるが、その点は、「楽しみ方による人種?民族?の誕生」というテーマで語る機会があれば、そちらで語ることとしたい。

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