秋の忍び足
夏の暑さがやっと終わりを迎えたかと思いきや、気がつけば辺りは虫の音と秋の風。暑さに気を取られている隙に、秋はいつの間にか忍び足で、もう目の前にいる。
近郊の山間にある花の公園はこの日、小雨模様。早くも桜の葉が色づいて、しっとり濡れている。今は花が少ない時期なのか、花壇の彩りは乏しかった。それでも美しい木立に囲まれた園内を歩くと、森の中を探索している気分になれる。他に誰もいない公園は、束の間の我が家の庭である。
足元の野草を捜しながら、ぶらぶら歩くこと小一時間。耳をすませば落葉の陰から、秋の歌声が聴こえてくるような気がした。
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自然の中を歩くことは瞑想になる。只管打坐だけが瞑想ではない。日常のあらゆる瞬間に静寂は潜んでいる。
静寂は私たちの心の故郷。人間の真実を探求する方法として、「瞑想」は古来多くの探求者によって実践されてきた。
お釈迦様が悟りを開いた時は「ヴィパッサナ」と呼ばれる瞑想をしていたと言われる。それは「今ここに気づく」という、ただそれだけの瞑想法だ。ヴィパッサナの基本は、自身の呼吸に注意深くあること。それ以上のことは何も意識せず、何もしない。
ゴータマ・シッダールタ(後のお釈迦様)は王族として優雅な暮らしを続けていた。しかし人生の無情や苦しみに思い悩んだ末、人間の真実を追求しようと志し、妻子を残して、29歳で出家する。
その後、ひらすら厳しい苦行と断食修行に励んだが、何をしても悟りを開くには至らなかった。
出家してから6年後のある日、とうとう衰弱して骨と皮だけになってしまった瀕死のシッダールタを見るに見兼ねて、近所に住む女の子スジャータが乳粥を施した。
心身共に元気を取り戻したシッダールタは、極端な苦行では悟りを得ることができないと理解し、それまで続けていた苦行の一切を放棄した。
近くの川で沐浴し、森の中へ入り、一本の菩提樹の下に座った。そこでただ呼吸だけを見守り続けた。
7日目にして悟りを開き、ブッダとなった。それは35歳の12月8日、暁の明星が東の空に輝く美しい朝だった。
世界中で、そして日本で、これまで多くの探求者が悟りを開いてきた。そのほとんどはヴィパッサナ瞑想の最中に起こったという。
この瞑想は、日々の生活の中で誰にでもできるシンプルなもの。歩いていても、食事をしていても、乗り物に乗っている時にも、「呼吸に気づくこと」ができれば、そのすべてがヴィパッサナとなる。
以前インドの探求施設にいた時、「ヴィパッサナ・ウォーク」と呼ばれる歩く瞑想の探求グループに参加した。施設内の遊歩道や、広々とした庭園、森の中をただひたすら歩いた。
ただ一つだけルールがあった。それは通常の歩行速度ではなく、できるだけゆっくり忍び足で歩くということ。一歩踏み出すのに数秒から数十秒かけて歩く。途中で立ち止まっても構わない。歩くことが目的ではなく、自分の呼吸により注意深く気づくことが最も重要なポイントだった。
目的地もなく、時間も気にせず、何も考えず、ただ歩きながら、呼吸することだけに意識を向ける。たったそれだけのことが深いリラックスをもたらす。意識は明晰になり、体の中からエネルギーが湧いてくる。
周囲の事柄に気を取られることがなくなり、自身の思考や感情との距離感が生まれ、エネルギーが無駄に奪われることから解放される。
今この瞬間に生きている自分自身の存在に、より注意深く集中できるようになる。それまで知らなかった自分の中にある、安らぎや豊かさに気づいていく。
日本の街中や、職場内でこれをすると、心配されるか、怪しい人に見られるか、もしくは当局に通報されるかのいずれかなので、御用心。これは世間の効率至上主義とは真逆のアプローチであり、何の利益にも、徳にもならなず、また誰からも愛されることはない。
だからといって世捨て人になる訳でもない。むしろその距離感を意識することにより、臨機応変に、世間と、そして他者との間の、適切な立ち位置を嗅ぎ分け、柔軟に対処できるようになる。
あまり人気のない静かな公園や森を見つけて、バードウォッチングや、野草探しをしながら一人でぶらぶらするならば、いくらでも可能な瞑想法だ。
心地よい風に吹かれ
秋の忍び足に耳を傾ける
季節の営みに寄り添い
他者と世間を手放していく束の間のひととき
その時私は
「わたし」を思い出す
Everytime We Say Goodbye (Live)
Hannah Grace