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日野江植物公園のモミジ



 訪れる度に、麓から小高い山の上まで続くこの広大な公園が、元は個人経営の植物園だったということにいつも驚く。今は北九州市が運営し、造園業者が管理するが、通常の植物園とは随分と趣きが異なり、個人宅の庭の延長のような手作り感が今でも色濃く残っている。

傾斜地に造られた迷路のような小道は、階段や坂が多く、広葉樹林の中をいくつも枝分かれしながら先の見えない森の奥へと続く。晴れていれば、どこを歩いても木漏れ日がきらきらと美しい。子供の遊具施設がないこともあって、訪れるのはほとんど植物好きの中高年層ばかり。通り抜ける秋の風に吹かれ、野草が花を咲かせているのを探しながら歩くのが心地よい。

これまでにも何回か記事を投稿したが、今回の目当ては紅葉。しかし見頃は11月下旬からとのこと。先日訪れた際はまだ色付き始めたばかりで、目立つのはそこかしこに咲くツワブキの黄色い花だった。異常気象にもかかわらず、今のところモミジの葉は順調に変容のプロセスを辿っているように見える。

モミジが色づくと、ただ単に景色が美しいというだけでなく、何気ない森の風景もまた一段と静寂に満ちたものに変容する。訪れた人は皆、赤や黄色に色づいたモミジの前で足を止め、静かに見上げている。

寺院の庭園にモミジが多用されるのは、その幹や枝ぶりとその葉の姿形が、人の瞑想性を引き出す何らかの効果を秘めているからではないか。

モミジの細い枝の末端にまでゆき渡った無数の葉の一枚一枚に至るまで、とてつもなく繊細なシルエットが刻み込まれている。そこに多種多様な色のグラデーションが加わり、モミジの葉は花に匹敵するほどの美を獲得した。
創造主の粋な計らいだ。

「美」は大地の静寂から生まれ、やがて再び静寂へと還っていく。人の意識もまた、シンプルな呼吸の繰り返しに導かれながら、静寂の深みにおいて、内奥の静止点スティルポイントという無形の源泉へと落ちてゆき、安らぐことができる。

モミジの美しさは、静寂の深みへと人々の意識を誘う自然界の祝祭のアートとなるのではないかと思う。


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北九州市立 日野江植物公園 (門司区)

















































































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「静寂を大切にしよう」 
デイヴィッド・アイク


 精神的覚醒が存在するのは言葉と言葉、思考と思考の間の静寂だ。言葉や思考そのものの中にはない。言葉や思考がひらめきを与えることものであっても、それらにできるのは道の途中まで連れて行くことだけだ。それどころか、たいていの言葉や思考のように、それらがひらめきを与えるものではなく、不平不満の繰り言であれば、その言葉や思考によって囚われの身となる可能性もあり、実際そうなっている。

 私は決して自分の物差しで考えているのではない。そして誰もがあの思考のない状態で本当に「無限なるもの」にアクセスできる。私たちは絶え間ない雑念によってあまりに疲弊しているので、考えることを止めようと誰かが言ったとしても、それは不可能に聞こえる。しかし現在、私は思考を止めることがますます簡単だと気づきつつある。

 確かに、思考がない状態に集中していても、依然として思考がやって来る。しかしその思考を「自分」だとする代わりに「知的マインド」の思考だと受け入れる。やってきた思考について考えるのを止め、観察を始めるのだ。

 これを行っていると、簡単な質問をすることで何かに気づくだろう。自分が「自分」の思考を観察しているとすれば、その観察をしているのは誰か? その答えは本当の自分、すなわち「大いなる意識」だ。本当の自分は静寂であり、思考と呼ばれる「知的マインド」のおしゃべりではない。

 そして、「マインド」の思考パターンではなく、「大いなる意識」の洞察を描写して、この現実で伝えるために言葉を使うことができる。圧倒的多数の人々にあてはまるように、「知的マインド」は「大いなる意識」とのつながりを抑圧しているが、「知的マインド」を乗り越えると、それは抑圧する代わりに本来の橋渡し役として本当の自分に仕え始める。

私がよく言うことだが、見かけどおりのものはない。雑念に覆われていても、本当の自分は静寂なのだ。

 これらのあらゆる「物や事」に覆われていても、根本的な現実とは、何も存在していないということだ。「無限なるもの」がすべてであり、〝何もない〟のが真実なのはこのためだ。〝何もない〟ということなしで何かが存在することはありえない。なぜなら、〝何もない〟ということなしで何かが出現するということは不可能だからだ。

 言い換えると、「物体」の間に空間のようなものがなければ、どうやって「物体」が存在できるだろうか? 私たちは「物体」を崇拝するが、「物体」は一時的な形にすぎず、〝何もない〟ところから生まれた。その〝何もない〟は「すべての可能性」である「愛」の平穏で静寂な「虚空」なのだ。

 音は静寂から生まれ、静寂に帰ってゆく。その静寂があるからこそ音は存在できる。静寂とは〝何もない〟だ。

 「何か聞こえるかい?」
 「いや、何も」

 静寂を大切にしよう。
〝何もない〟を大切にしよう。
それが本当の自分なのだ。

~デイヴィッド・アイク「世界覚醒原論」





Michael Nyman - Love Doesn't End




ありがとうございます




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