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人と滝との相似性


 北九州の市街地から郊外へ向かうと、緩やかな山並みに囲まれた田園地帯が広がっている。福岡から大分、熊本、佐賀へと続く美しい日本の里山である。

 山沿いには小さな集落が点在し、集落ごとに氏神神社が寄り添うように建っている。車のナビには表示されない小さなお社や祠も数多い。先日訪れた直方市にある龍王神社も小さなお社だけの神社だ。

    ところがこの神社について調べていくうちに、この境内の奥には御神体として小さな「滝」があることを知った。





 車のナビに神社の名前は表示されず、竜王峡キャンプ村とだけ出てくる。指示に従い美しい山里の中を進んでいくと、深い谷間の林道へと入る。やがて行き止まりのキャンプ場に着いた。

 神社の案内板らしきものはどこにも見当たらない。
 キャンプ場の食堂らしき建物に年配の女性の姿が見えた。
 「この近くに神社はありますか」
と尋ねると、入口まで丁寧に案内してくれた。神社の鳥居は車を停めた場所から森の中を数十メートル進んだすぐ奥にあった。


龍王神社
祭神
闇龗命、闇山祇命、岡象女命
由緒
水の神として筑豊地方の住民に知られている当社の建立は不詳であるが、仁安元年今から約八百年前再建されたことが続風土記に記録されている。附近一帯は尺岳神社として女人禁制の霊場と共に、筑豊四都(遠賀・鞍手・嘉麻・穂波)住民の雨乞い所として崇敬をあつめていた。この鳥居の両くつ石は文政元年今から約500年前四都の住民が報實として石の宝殿と鳥居を建立したその鳥居のものであると推定され、昭和二十五年竜王峡観光開発の折、樹齢約四百年の古大株と共に地中から発見されたものである。
社務所






 鳥居の手前には古代祭祀場跡と思われる平らな巨石が並んでいた。コンパスで調べると東西に沿って並べられている。

 鳥居をくぐると、このキャンプ場のバンガローが数棟、山の急斜面に建っていた。ここは個人所有の敷地内。渓流沿いの深い谷間は、確かに自然のバイブレーションを満喫するにはもってこいの場所だ。

 バンガローの奥に拝殿と小さなお社が現れる。いくらかの貢物や賽銭、新しい榊が供えられていた。管理人の方か、もしくは定期的に参拝に訪れている方がいるようだ。





 深い峡谷は美しい竹林や杉木立、雑木林、巨木などに囲まれ、野鳥の歌声が響き渡っている。

 お社のすぐ横にある急斜面を降りると、すぐにごつごつとした岩だらけの河原に出る。渓流は狭いが、清らかな水がさらさらと流れ、木漏れ日が降り注ぎ、川底の石がキラキラ輝いている。谷間の奥からは滝の瀑声が聞こえてきた。





 まず最初に現れるのが第一の滝。落差4~5メートルほどの小さな滝である。しかし予想していたよりも遥かに美しい。滝の両脇にある巨石が、まるで大きな磐座のようにそびえ立ち、その間から水が落ちてくる様が何とも神々しく目に映る。

 こうした人気のない滝や渓流は往々にして荒廃していることが多いが、この龍王の滝は瑞々しい生命感に溢れている。滝行をした後のような残存エネルギーの気配もない。流木も散乱していない。とても静謐なバイブレーションが満ちている。まさに御神体と呼ぶに相応しい滝だ。





 さらに森の奥へ進むと、やがて第二の滝と第三の滝が並んで現れる。この二つの滝の水はそれぞれ別の水源から流れてくる。

 第二の滝は落差が10メートルほどあるが水量は少なく、細い糸を束ねたような線となって落ちていた。
 第三の滝は第一の滝に似て落差は小さいが、半分落ちた途中で岩に当たって「くの字」に向きが変わり、第一と第二とはまったく異なる趣を醸し出している。

 これら三つの滝はいずれもこじんまりとしたものだが、古代の人々が祈りを捧げていた当時の様子を垣間見るような、豊かな森に囲まれていた。





 古代の人々がその場にいた時のことを、ふと想像してみる。

 大きな岩の上に座り、耳を澄ませ、目を閉じる     



 静かな瀑声が、滝つぼを取り囲む岩肌に反響し、四方八方から聴こえてくる。滝つぼから湧きたつ風は細かな水滴を含み、まるで霊風たまかぜのようにふうっと吹いている。滝つぼから溢れた水は川底の岩の上を滑り落ちるように下流へと流れていく。

 心が静まっていくと、滝のバイブレーションが体じゅうを満たす。やがて滝の波動と同調し、音の中に溶けていくような錯覚を覚える。





 雨は地上の命を育む天の恵み。水が止めどもなく流れ落ちる様は、あたかも自然界の摂理を凝縮したエッセンスのようだ。

 水は愛。神は水。

 古代の人々が滝に向かうとき、彼らは滝のその奥に「存在」そのものをまざまざと意識し、感謝と祈りの純粋な波動で心の中を満たしていたのではないか。





 その時人々は、合掌ではなく両掌を開いて上に向けていたはずだ。

 日本で合掌と祈りが結びついて行われるようになったのは、神仏習合の信仰形態が始まった奈良時代以降のこと。

 神仏習合の影響を受けなかった南西諸島や沖縄の一部の地域では今も尚、古くから続く手の平を上に向けて神仏に祈りを捧げる風習が残っているという。





 余談だが、合掌する手は自分自身のエネルギーを体内で循環させ増幅する効果がある。
 それに対して両手を開いて上に向けた時には、周囲と自分との間でエネルギー(気)の循環が起こり、自分の身体が中空のパイプ、或いは空っぽの「受け皿」のような役割へと変容するような気がする。

 こうして滝の前で手を広げ上に向けると、手の平がピリピリするような感じがしてくる。これはヒーリングワークをしている時にも起こる。またパワフルな神社の拝殿で参拝する時も同じような感覚がやってくる。





 これもまた余談だが、ご存知のように縄文土器の表面には様々な紋様が施されている。これは周囲のエネルギーを内部に取り込み、中にあるエネルギーを外に排出する循環装置としての役割があると思う。
 
 縄文土器の周囲や内部に手をかざすと、こうした循環するエネルギーの流れを実際に捉えることができる。それは貯蔵食物の鮮度を保持する効果を生むのではないか。

 現代でも渦巻き模様のついた波動プレートの上に食品や飲料を置くと、数分で味が美味しくなることがある。しかし添加物の多いものは逆に不味くて食べれなくなることが多い。

 このエネルギーの循環システムは本来人体にも備わっている。体内のエネルギー(気)の滞りを解放し、流れを活性化させれば、心身の健康を取り戻すことができる。





 話しを元に戻そう。滝は自然界の摂理を凝縮したエッセンスであると同時に、上流から下流へと向かう一つの通過点でもある。滝つぼという窪みもまた一時的な受け皿であり、水は絶えずこの中を循環し続けている。

 もしも滝つぼくんが「この水はボクのもの!」と主張し、岩で囲んで流れを堰き止めたなら、やがてその水は淀み腐ってしまい、滝つぼくんは後悔することになるだろう。

 滝と人のエネルギーレベルの特性は相似形だ。





 この地球もまた命を育む大きな受け皿という意味で相似形であり、さらには太陽系の星々、銀河系宇宙もまた巨大なエネルギー循環システムの一部を形成していることから、相似形と見なすことができる。

 小さな泡粒とシャボン玉、そして大宇宙の銀河集団に至るまで、すべて同じ泡構造。そこには「相似の原理」が働いている。

相似の原理【similarity principle】
二つの物理学的系において物理構造が相似であり,それぞれの独立した力に対するフルード数が同一の値をもつ場合,ある瞬間において運動学的および幾何学的にも相似であれば移動もその相似性を保持する.

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 滝に向かい、自分を明け渡し、心を空にする。
 ポジティブでもネガティブでもなく、幸も不幸もない。
 プラスマイナスゼロの中庸に在る時、人と滝は自然に共鳴し合う。

 滝の存在が、人と大地との間を取り持つ仲介役となる。
 同時にその共鳴は地球、宇宙、神へ連綿と続いていく。





 人ー御神体ー地球ー太陽系ー銀河系宇宙ー大宇宙ー神。





 古代における自然崇拝は、滝以外にも、磐座いわくら(巨石)、山、巨樹、海、天体など様々な自然物が神や精霊が宿る御神体となった。

 内なる「空性」との共振共鳴を実感した時、その場所、その対象の中に「聖なもの」を見出した。

 古代の人々は身の回りにそれがあまりにも数多く存在していた為に「八百万やおよろずの神」と呼んだ。





 「空性」は物質レベルでは「空っぽ」に見える。しかし目には見えない高次元においては、情報に満ち溢れたエネルギーフィールドであり、インスピレーションと創造性の源となる。

 眼には見えないエネルギーの周波数が段階的に下がることによって、直感、ひらめき、物質化現象が起こる。





 このようにして古代の人々は御神体を前にして、生きる喜びと感謝の念に満たされ、創造の源となる神との一体感を得ていたのではないか。

 祈りとは神に何かをこいねがうことではなく、その一体感こそが祈りの本質なのではないだろうか。

 神と一つになった時、やがて逆方向へとエネルギーが下降し、本当に必要とされるものが現象化する。それを人々は神の「御加護」「天恵」「恩寵」と呼んだのだと思う。



       大きな枯れ枝が一本滝つぼの真上から落ちてきてぼしゃんと大きな音がした。はっとして目を開けると滝つぼくんがきらきらにこにこ笑っていた。




🏕️




 追記

 こうした御神体は今もこの日本の各地に息づいている。

 現在、国内の神社の数は約8万1000社。小さなお社のような末社を含めると、20~30万社が存在するという。その中にはすでに観光地化しているような神社も見かけるが、今回訪れた龍王神社のように小さいながらも神聖さに満ちたお社も存在している。

 神社は個人的な祈願の場として利用されることが多いが、人の祈りの波動は世界中に届く可能性を持つが故に、個人を超えたレベルでの祈りの場としても意識的に利用すべきではないかと思う。

 縄文時代は1万年以上も戦争のない平和な時代が続いたと言われている。それは神聖さを生存の中心に置き、自然に対する深い理解、畏敬の念、受容性、愛の質を人々が維持し続けていたからだろう。

 若い頃遺跡発掘アルバイトをしていた時、担当していた数千年前の縄文時代の竪穴式住居から、完全な形の小さな土器が一つだけ出土したことがあった。それは部屋の隅に造られたかまどの中から現れた。土器はかまどの中心に正確に伏せて置かれていた。おそらく何らかの理由で立ち去らなければならなかった住民が、意図的に置いていったものと思われる。

 それは住居から立ち去る印であり、と同時に神への感謝の念を表す印だったのではないかと思う。数千年の時を隔て、縄文人の愛と光を感じた一瞬だった。

 今日、海外における紛争はエスカレートの一途を辿るばかりであり、世界大戦の危機をも孕んでいる。背後には国家や地域を超えたレベルで、二つの勢力の間で抗争が繰り広げられてきた数千年の歴史がある。世界を支配しようとする勢力と、それに抵抗しようとする勢力だ。

 この二つの勢力の狭間に生き続けてきたのが縄文人の遺伝子の一部を受け継いだ日本人ではないかと思う。

 人々が恐怖を感じれば感じるほどコントロールしやすくなるということを彼ら当事者は知っている。戦争は死の恐怖を与え続ける応酬だ。今、私たちが不安や恐怖に囚われてしまっては、彼らの罠にハマるのとまったく同じこと。

 今こそ私たちは、愛と光で心を満たすとき。
 それは夢物語だろうか。
 それともお花畑の産物なのだろうか。

 何があっても、たとえ肉体から離れたとしても、愛と光のエネルギーは失われることなく永遠に続く。

 エネルギーは永久不滅。
 この世に生まれてきたのはそのことを真に実感するためだと思う。


エネルギー保存の法則( law of the conservation of energy)とは、「孤立系のエネルギーの総量は変化しない」という物理学における保存則の一つである。エネルギー保存則とも呼ばれる。

Wikipedia






Fallen Down - Liminal + Slowed + Reverb + 432 Hz
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お疲れ様です
素敵な週末をお過ごしください





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