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桜ひとひら
桜咲くこの季節、今年は地元の数か所を見て回ることができた。昔も今も桜の姿形は変わらない。しかし以前は桜の木全体を見て「美しい」と感じていたが、今は小さな花を見て「可愛い」と思うようにもなった。太く隆々とした幹を持つ長寿の木になればなるほどそのコントラストはいっそう際立ってみえる。
「木を見て森を見ず」とは「物事の細部に気を取られて全体を見失ってしまうこと」を意味する有名な諺だが、逆に「森を見て木を見ず」ということもあり得ると思う。
18歳の時、桜咲く季節に起きたある一瞬の出来事を思い出した。
一人の70代半ばの女性に対して「可愛い人だなあ」と感じたことがあった。
その人は高校時代の親友「K」の祖母だった。
Kの祖父母は当時、自宅に隣接した天理教の教会を運営していた。祖父は80歳をとうに超え体も弱っていたので、教会の運営はほとんど祖母と娘の二人で執り行っていた。
Kの弟は、12歳になった時、心臓病で亡くなった。葬儀は天理教式で執り行われた。私は雑用を手伝うことになり、そこで初めて祖父母と知り合った。
Kが「おばあちゃん」と呼ぶのに倣って、私も「おばあちゃん」と呼んだ。
葬儀は遺族や参列者が悲しみに暮れるというよりも、旅立った魂に祝福と感謝の気持ちを贈るセレモニーとなった。それまで経験してきた葬儀とは真逆の、始終明るく賑やかな光景を目の当たりにして思わず絶句した。
弟は長い間小学校に通えず自宅療養が続いていた。本物の天使を目の前にしているのではないかと思えるくらい、キラキラと輝く瞳とオーラを持つ子だった。そうした葬儀を上から見下ろしながらきっと喜んでいたに違いないと葬儀の最中に思った。
葬儀が終わってからも、休日にKとよく祖父母の教会に出かけるようになった。天理教の教えの一つである「陽気暮らし」が、あの陽気な葬儀というものを生み出す背景にあると知った。
夕方行う「お勤め」に時々参加した。太鼓や鉦を鳴らし、歌を歌い、踊りを憶えた。
慣れてくると一人で行くようにもなった。
中学高校の頃、哲学や宗教書を分かったふりをしながら読んでいたことがあり、宗教的な物事には若干の関心があった。しかし、そこでは本の世界を抜け出し宗教活動のライブステージに参加できるとあって、その身体感覚を伴ったリアリティに熱中した。
おばあちゃんとは60近くも歳が離れていたが、誰に対してもオープンで優しい人柄に親しみを覚えた。
気品のある顔立ちと凛とした姿。艶のあるハスキーな声。いつ会ってももきちんと髪を結い、和服を着ていた。年齢を超えて美人だった。
また人前では微笑みを絶やさず、はつらつとして、冗談をよく言って周囲を笑わせるのが上手だった。当然皆から慕われていた。押しつけがましい宗教的信条などを口にすることはなく、いつも一人の女性として誠実に高校生の若者に接してくれた。
こんな歳の取り方ができたらいいなと会う度に思っていた。
高校を卒業した春、おばあちゃんと娘、親友Kと一緒に数日間奈良の天理市で過ごす旅に誘われた。
ここは天理教の宗教施設が集中する宗教都市として知られている。今日では信者数日本一を誇る巨大な新興宗教である。街の中心部にある神殿とその周囲を取り囲むように宗教施設が連なっている壮大な光景は、世界でもここだけにしかない稀なものだろう。
品川から乗った夜行列車は、東京近辺に住む天理教信者が年に一度の団体参拝をするために、列車を丸ごと借り切って直通運転する「団参列車」と呼ぶものだった。中学生の時に乗った修学旅行専用列車「ひので号」とまったく同じタイプだ。
中高年層が多かったため、全車両4人掛けボックスシートの座席の上にコンパネ一枚を置き、そこにござを敷いて簡易的な座敷が設えられていた。座布団を並べ向かい合わせの4人がそれぞれ互いに靴を脱ぎ足を前に投げ出して座り、一晩中その恰好で寝た。
乗客全員が「陽気暮らし」をモットーとする天理教信者だったこともあり、知らない人同士で夜遅くなるまで食べたり飲んだりワイワイ賑やかに過ごした。それはそれで結構楽しい旅となった。
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天理教HP
天理に着いてからは信者専用宿舎の大部屋に寝泊まりしながら、自分は一人自由行動となった。私は信者になるつもりはなかったので、やるべきことは何もなく、もっぱら宗教施設の見学や街の散策に時間をつぶした。
最も印象的だったのは本殿に参拝に来る人々の姿だった。
広い畳の礼拝場には、神殿に向かって長い時間正座しながら礼拝している多くの人々がいた。礼拝が終わると、次はそのまま奥の回廊に向かって移動する人が少なからずいた。神殿と東西南北の礼拝場、教祖殿、祖霊殿を結ぶ長い回廊は1周約800メートルあり、板張りの床が続いていた。
この回廊は床も手摺りも窓もすべてピカピカに輝いていた。それは参拝に来た一部の人が、自主的に「乾拭きの雑巾がけ」をしている為だった。
汚れているわけでもないのに、次から次へと雑巾がけをしていく信者たち。これは信仰の対象である親神様のご守護に感謝をささげるという気持ちを込めた自発的な奉仕活動とのことだった。
四つん這いになって両手にそれぞれ乾いた雑巾を持つ。膝を床につける。目の前の木の床を片手ずつ半円を描くように拭いていく作業を延々と繰り返す。身体が不自由な人は床ではなく壁や手摺り、窓を拭きながら歩いていた。
一般的な神社での参拝が短時間の祈願で終わることからすれば、この天理教の神殿に対する信者の姿勢はあまりにも真摯なものだったので、かなり驚いた。
ある晩、夜中12時過ぎに寝静まった宿舎を抜け出し、一人で神殿に出かけた。真夜中でも自由に参拝できると聞いていたからだ。そこでもこの回廊の「乾拭きの雑巾がけ」を黙々とし続ける人が何人もいた。
いったいこの乾拭きの最中はどのような心境になるのか?
好奇心を抑えられなくなった若造は、回廊入り口に置かれている「雑巾」を手に取った。
一拭きで数十センチしかできないのでなかなか先へ進まない。一分間にほんの数メートルだ。回廊の半分にも辿り着かないうちに、床についた膝が痛くてたまらなくなる。後から始めたベテラン信者たちにどんどん抜かされる。彼らは膝パッドをつけている為に痛みをあまり感じていないようだった。
ただ痛みに向き合うだけで、とても神に感謝する気持ちには程遠かった。何ら期待していたような発見も理解も得られず、辛うじて1周800メートルの回廊を2時間かけて拭き上げるのが精一杯だった。
翌朝、おばあちゃんにこのことを話した。目を丸くして驚いていた。そしてこの時からおばあちゃんの私に対する接し方が一段と親しげなものに変わったような気がした。
その翌日、施設を案内してもらうことになった際に、周囲にはたくさんの人がいたにも係わらず、おばあちゃんは突然私の手を取って歩き始めた。
それはほんの十数秒間の出来事だった。
自分の孫と同い年だったから、かわいい孫の手を引くようなつもりでそうしたのだろう。不思議と違和感というものはなく、さらりとした自然な振る舞いだった。
私の高校生時代は女の子と手を繋ぐなんてことは、せいぜい体育祭のフォークダンスの時くらいだ。女の子たちと手を繋いだ時、人によって手の柔らかさや体温には随分と違いがあるのだなと感心したことをよく憶えている。
しかしおばあちゃんと手を繋いだ時の方がインパクトとしては大きかった。常識を打ち破る意外な行動に出たおばあちゃんの乙女のような純粋な心に触れ「可愛い人だなあ」と思った。
天理から東京へ戻る団参列車は夜行ではなく、朝出発した。誰もが数日間の滞在によって日頃の厄をすべて落としたかのように、軽やかで清々しい表情をしていた。
途中の車窓からは、東海道本線沿いに至る所桜が咲き、明るく白い日差しが沿線の家々に降り注ぎ、平和な世界がどこまでも広がっているように見えた。
あの回廊磨きはいったい何だったのだろうと振り返って思う。
ピカピカに磨き上げられた神殿の廊下をさらにいっそう磨き上げるという一見無意味にすら思える不思議な奉仕活動。それは、現代社会にある洗練された「自分探し」や「幸福探し」の方向性とは相容れず、随分と古風な修行にも見える。
禅僧が雪に覆われた真冬の夜に滝行をすることには程遠いかもしれない。しかしながら、もしもそれが無意識的な反復ではなく、また単なる思考の世界の自己探求でもなく、リアルな身体感覚を伴いながら、自分の内側に沸き起こる様々な思考や感情を見守る機会となるなら、そうした単純作業の繰り返しほど自分がよく見えてくる状況は他にない。
やがて内的な器が空っぽになっていく変容のプロセスを辿ることになるならば、「存在に自分を明け渡す」という瞑想の極意に通ずるものとさえなる。
おばあちゃんと手を取って歩いたという出来事は、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちる位にささやかなものだった。
もしかしたらそれは、おばあちゃんの中にあった「大きな空っぽの器」と若造の中にあった「小さな空っぽの器」が微かにぷるぷると共鳴した一瞬だったのかもしれないと思う。
全面的な明け渡しの中で初めて
あなたは「存在」と触れ合うことができる
さもなければ不可能だ
ちょうど水が100℃で蒸発するように
全面的な明け渡しがあって初めてエゴが消滅し
あなたはただの空っぽの空間となる
内側には誰もいない
そこには大いなる沈黙
果てしない無限がある
だが誰もいない
その時こそ
空全体があなたの内側へとなだれ込み
天と地が出会い
あなたが死すべきものから不死なる魂へと
変容をとげる瞬間となる
🧑🤝🧑
福岡県福津市 宮地嶽神社
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北九州市 中央公園
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北九州市 日野江植物公園
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遠い日の記憶
川上ミネ
ありがとうございます
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