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初めてのカメラ


 押し入れから小さな箱に入った数十枚の白黒写真が出てきた。子供の頃に自分で撮ったものだ。
初めて手に持ったカメラは1967年10歳の時。コニカC35という発売されて間もないコンパクトなフィルムカメラだった。親父に買ってもらったわけではなく、勝手に箪笥から持ち出して使っていた。しかしそのまま自分の物のように高校生まで使い続けた。

フィルムも現像もプリントも子供にとっては大きな出費だった時代。一本で確か二、三百円する12枚撮りの白黒フィルムを小遣いを貯めて駅前の写真屋に買いに行き、少しずつ大事に撮り続けたものだった。

それらの写真の中には、当時私が住んでいた家の向かい側にある家で撮った写真が数枚混ざっていた。私の家は東京郊外にある木造一戸建ての小さな住宅だったが、向かいには二千坪もの敷地に大きな養鶏場と経営者の家があった。当時としては稀な洋風のモダンなデザインで、遠くからでも見えるような大きな二階建ての水色の家だった。そこには経営者夫妻とすでに成人した子供4人、そしておばあちゃんの7人が一緒に暮らしていた。

赤ん坊の時から、私はこの家の人たちに世話になり続けた。自分の家にいるよりも、この向かいの家にいる時間の方が長かったと後で親から聞いた。
その家には嫁入り前の娘さんが二人住んでいて、私はかっこうの子育ての練習台となり、愛情をたっぷりと注いでもらったようだ。

幼い頃の私は、自分の家とこの家の違いが分かっていなかったと思う。
歩けるようになると昼食時にずけずけと家に上がり込んで、おじさんの好物のチーズを一切れもらったり、遊びに疲れると娘さんたちに好物の砂糖水を作ってもらったりして飲んだ。
三輪車に乗れるようになってからは、広い敷地内を夕方暗くなるまで走り続けた。自転車の乗り方を教えてくれたのもおじさんだった。何日も顔を見せない日があると心配して様子を見に来てくれたりもした。



この養鶏場では経営者の「おじさん」が数千羽の鶏を飼っていた。個別に建てられた十数棟すべての鶏舎には広い土の運動場があり、鶏たちは伸び伸びと平飼いで育てられていた。

おじさんは、「鶏は土を食べることで病気にならずにいられるんだよ」と子供だった私に教えてくれた。実際に鶏たちが鶏舎内で食べる餌だけでなく、運動場を動き回りながら、時々立ち止まっては土を啄んでいる姿をよく見かけた。鶏たちは仲間たちと楽しそうに追いかけっこをしたり、つつき合ったりしながら、逞しく元気に暮らしていた。

ケージに入れられて育った鶏は、運動不足と共に、土の中のバクテリアを摂取できず、消化不良を起こし胃腸の病気になりやすいということを、大人になってから「おじさん」の執筆した養鶏の専門書を読んで知った。おじさんは当時ケージでの養鶏が全国的に普及し始めた頃、その飼育方法に警鐘を鳴らしていた人だった。

向かいの家の「おばさん」



上の写真はこの養鶏場の「おばさん」で、おじさんの奥さんだ。
この写真は、その養鶏場敷地内にある花壇の中で撮ったもの。当時、買い物に出かける主婦は皆、白い割烹着を着ていた。
買い物から帰ってきたばかりのおばさんに声をかけ、写真を撮らせてと頼んだのを覚えている。
おばさんは「それじゃあ、ここで撮ってね」と言って丹精を込めて作った花壇に座り、ポーズをとって微笑んだ。
一面に咲いている花は、おばさんのお気に入りの芝桜。いつも何かしら花がたくさん咲いていた。ここだけでなく、おばさんが育てた芝桜があちこちの鶏舎の脇に咲いていた。

養鶏場の中では、おじさんと従業員のお兄さんが鶏のエサを作っている作業を横で眺めたり、仕事をする後について歩き回った。仕事中の姿などを写真に撮ったりもした。

鶏肉も卵もいつもこの養鶏場から新鮮なものを頂いていた。
ある時には生まれたばかりのオスの雛を廃棄処分になる寸前に拾い上げ、それをもらって育てたりした。
また養鶏場の一角にある武蔵野の雑木林の中を歩いたり、鯉や亀が住む池で餌をやったりして、よく一人で遊んだものだ。


バケツに入った餌を鶏舎へ運ぶ「おじさん」
早朝から夕方まで餌と水やり、清掃、卵の回収、ふ卵器の作業などを一年365日、それを数十年休みなく続けていた。仕事を終えた夕方は、おじさんが息抜きのドライブにプリンススカイラインを運転して出かけた。その助手席によく乗せてもらっていた。


カメラを手にした翌年、突然この養鶏場の土地は売却され、家族は離れた街に引越していった。東京郊外のこの街にも宅地化の波は押し寄せていた。
引越しの当日、おじさんおばさんの顔を直視できず、さよならも言えずに、鶏舎の陰に隠れて一人で泣いた。

それからしばらくの間、人も鶏もいない静まり返った養鶏場に壁を乗り越えて忍び込み、一人で遊んだ。草ぼうぼうに伸びて荒れ果てていく敷地内や外壁を写真に撮った。

やがて大きなブルドーザーがやってきて、家や壁や鶏舎がすべて取り壊され、花壇が消え、池が埋め立てられ、大きなプラタナスの巨木や武蔵野の雑木林も根こそぎすべて切り取られ、突然何もない平坦な剥き出しの更地が目の前に現れた。
その翌年からはたくさんの二階建ての住宅が立ち並び、すっかり景色が一変してしまった。

小さい頃に何回も何回も読んだ「ちいさいおうち」という絵本の中に出てくるストーリーと同じようなことが目の前で展開され、子供の私は茫然としながらその光景をただ眺めた。
その頃に始まった高度経済成長と日本列島改造論によって、周りの東京の風景は次から次へと新しい街へと変貌していった。


そんな子供の時の記憶を瑞々しく蘇らせてくれる写真というものは、それがどんなにピンボケであってもぶれていても古めかしくても、撮った本人にとっては懐かしく、そして不思議なほどに美しく輝いている。当時の目線で今でも鮮明に頭の中に思い描くことができる。
芝桜の色とりどりの花の色、大きなプラタナスの幹の皮、沢山の鶏の鳴き声、雑木林の木の葉が風にそよぐ音。おじさんの優しい笑顔、おばさんの笑い声。
何もかも今もリアルに生きている。

先日、8歳の誕生日を迎えた親戚の女の子に「チェキ」というかわいいピンクのインスタントカメラをプレゼントした。親のスマホを借りて真剣に写真を撮っている姿を見て、私のカミさんがこの子は写真を撮るのがきっと好きなんだよという話を聞いたからだ。
この子の両親は知らなかったことだったが、この子は「私がすごく欲しかったもの!」と言って、とても喜んでくれた。

たくさん撮って欲しい。
「今」という奇跡に満ちた瞬間を。
彼女が大きくなった時、それらの写真はきっと大切な宝物となることだろう。




養鶏場の入り口と奥にはプラタナスの巨木が見える
木戸が白く色褪せて見えるのはそこで私がボール投げをして遊び過ぎた跡


養鶏場入り口の横の板壁
背後の家は従業員宿舎
家族が引越してしばらく時間が経ち、中も外も草ぼうぼうだった


壁を乗り越えて無人となった敷地に忍び込んだ
ここは敷地内の自宅の一角
この母屋を抜けた奥には池や武蔵野の雑木林が広がっていた


仕事中の「おじさん」


***


絵本「ちいさいおうち」(1942年出版)あらすじ
(アメリカ人絵本作家バージニア・リー・バートンの代表作)

むかし、あるところに小さな一軒家があった。リンゴの木に囲まれて小さな丘の上にそびえ立つその家は、住人と共に毎日自然豊かな田舎ならではののどかな生活送っていたものの、月明かりの遠くに見える市街地の情景を見て、そこで生活したらどんな気分だろうかとも思った。
それから時を経て、小さな家の周りが徐々に開発され始める。最初は新たな住宅が立ち並び、やがて全て取り払われたかと思いきや、いつの間にかアパートが家を囲んでおり、小さな家の前の通りには路面電車が走るようになった。さらに、同じ通りを高架鉄道や地下鉄まで走り始め、いつの間にか家の周囲はさらに大きな高層ビルが建設され、そこにはリンゴの木も丘も何もなくなっていた。とうとう辺り一面、ネオンサインが毎晩眩しいばかりに光り輝き、人々が忙しそうに歩いていく大都会の中心になっていたのである。家の前では多数の電車やバスや自動車が毎日留まることを知らずに走り続け、家を囲む空気は、埃や煙でかつてと比較にならないほど汚れていた。いつからか住む者もいなくなり朽ちるようにボロボロになっていた家は、もう通行人にも見向きもされなくなった。家はやがて寂しい気持ちになり、田舎での生活と過去を懐かしむようになった。
そんなある春の日、偶然通りかかった家族連れの女性が小さな家を指差した。実は、この女性はかつての小さな家の家主の9代目であり、その小さな家こそ彼女の先祖の生家だった。彼女はどうにかして家を助け出そうと思いめぐらせた。そこで女性は、大工に頼んで、小さな家を都会から離れた田舎の丘の上に移築させる。こうして彼女とその家族と共に新たな生活を始めた家は、再びのどかな生活を謳歌できることを心から嬉しく思い、再び幸せな時間を過ごしはじめるのだった。

wikipediaより引用



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