冬季限定ボンボンショコラ事件の感想


小市民シリーズの最終巻にふさわしいミニマルな安楽椅子探偵ものに仕上がっている。
予想は裏切るが期待は裏切らない。
古典部もこの調子で終わらせてほしいものだがはてさて。

先に不満を述べるのであれば、犯人の造形が少しご都合的に思える。
かっとなって撥ねた割に、車は冷静に処分しているし(普通は防犯カメラに映ったかどうかを気にしない)、通りすがりに見ただけで小鳩くんの顔を認識できるのも不思議だ(3年前だからなぁ)
あともう大人なんだから勝手に会いにいけば良かったのに。いろいろあるんだろうけれどさ。

だが、まぁそんなことは大した瑕疵ではない。問題は二人の関係性がどうなるかなのだから。

小市民シリーズに通底して流れる「逸脱者は小市民足ることができるか」に美しい答えが用意される。
彼らは自分の特別さを失うことなくきちんと小市民になることができた。人によってはそれを大人になると表現するだろう。

私にとって米澤穂信は、さよなら妖精のころからずっと少年少女の自意識について書いている作家だ。
特に「何者かになりたいのになれない」を書く手つきがべらぼうに上手い。小さな挫折がすこぶる心に沁み入るのだ。もちろんそこからの恢復も。
だから、ボトルネックを今の筆ぢからでもう一回書いてほしいな。あれは適切に書ききれていないように思うから。

少年少女の自意識は自分たちが普通であることを望まない。特に人よりも優れた何かを持つことを自覚していれば尚更だろう。
凡庸さを自分のものとして受け入れるには挫折や、他愛もない恋愛や、人付き合いが必要なのだ。
小市民とは自身の能力の有無で決まるのではなく、隣人も我もが変わらず同じ価値観に立っているという世界観によるのだと思う。
故に彼は犯人を断罪しなかった。
自分が壊したものの重さを理解できるようになったから。正しい答えが全てに優越する価値ではないと知ったから。これが報いだと理解したから。
でも、まあ、自衛権はあるよね(台無し)

小佐内さんは小佐内さんで、自身の邪悪さに正しさを用意しなくなった。
行動原理のひとつである「復讐するは我にあり」をごまかさない。
それもまた小市民らしい振る舞いだろう。やり過ぎにはならないように配慮しているし。

最善の結果であれば、大学入学の際に彼らの道は分かたれたに違いない。しかし、過去の因果をなぞるように不慮の事故にあい、小鳩くんの受験は終わってしまった。
予定外に別れを疑似体験することで、小佐内さんは小鳩くんの重みを自覚した。
次善であろうとも、関係を続けていくには大した努力が必要なのだ。そんなに好きでもない甘いものを好きになるくらいには。解かせるための謎の迷路を用意して待つくらいには。

古典部もそうだけど男性に積極性が足りないように思うのは時代の反映だろうか。
タルトが食べたいとか、告白の仕方が迂遠に過ぎるのでは?
この調子だと古典部とか、どうなるんだよ。ボトルレターにして流したりする? 逆に省エネだからズバッというのか?

きっとお互いに替えが効かない相手だとは思っていない。恋愛に没頭するには理性が勝ちすぎている。
だから、最善を希求するのでなく、次善で妥協する。ただ、だからってそれが相手が特別でないことを意味しはしない。
ふとしたボタンの掛け違いで、人は簡単に死ぬし、関係性は失われる。
特別さは永続性を保証などしない。
ただただ寄り添い続けることでしか、特別な関係は成立しない。
次善での妥協で結構ではないか。それがまさに小市民というものだろう。

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