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偏愛博士 あるいは 私が如何にして心配する事をやめ果実を愛する事を学んだか

残念ながら(と言っておこう)、愛情という想念は多くの人間にとって著しく微細なもので、それが執着や憎悪に昇華した時にのみ、具現化する。
博愛などという酷く矛盾した言葉もあるが、それはこの際無視しよう。恐らくそれは欺瞞だから。
唯一の例外として、それが詭弁でない場合があるとしたら、それは自己に向けられたナルシズムだ。
尤も、肥大したナルシズムは周囲を照らすだろう。しかしこれらも含めて、愛とは無縁の現象である。
愛が現象として明かされる時には、必ず犠牲が伴う筈だ。
もう一つの矛盾した例として、恋愛という言葉もある。
好きはLikeだが大好きはBig likeではない。ダイスキはLoveだ。恋と愛は決して相容れない。
如何なる場合においても、暴力が容認されない現代社会において、戦争は悪だ。しかし人間の本質として、暴力は正当化されようがされまいが存在し続ける。愛と同じように。
愛はいつか地球を破壊する。小銭を集めて日テレに持って行っても、愛は地球を救わない。
直江兼続の兜は団結を意味するのだそうだ。時代劇では「好いている」とは言っても「愛してる」とは言わない。仏教では慈悲という言葉を使うが、現代では憐れみと同義だ。
肥大した自己愛がもしも人類という種にとって別け隔てなく有益に作用する事があるとしたなら、シャフルされたパンデミック。
最早、善も悪も、益も害も区別のつかない免疫の暴走、サイトカインストーム。
本当のアルマゲドンは神と悪魔の戦いではなく、神と悪魔の和解なのかもしれない。


2023.12.19

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